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子供に関心のない母のせいで発達障害の症状が悪化

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この記事は20代の女性に、母親の無関心のせいで、発達障害の症状が悪化してしまった話を書いていただきました。子供に無関心でいると成人してからも発達障害に苦しむことになります。

………..

 私が発達障害の一種であるADHDを診断されたのは数年前でした。診察を受ける前、ネットなどで受診方法を調べました。この発達障害は成人してから現れるのではなく、子供の頃から症状があるものです(成人してから発達障害が現れるケースもありますが、原因は薬物、アルコール、鬱などが原因)。

 なので診察には「子供の時の記録と親など幼いころを知る人間の証言」が必要でした。しかし私は一人で池袋にある心療内科の門を叩きました。私の母は発達障害に理解がないと最初から諦めていたからです。母を悪く言うわけではないですが、発達障害の二次障害がひどくなってしまったのも、元をたどれば「母に愛されていない(私に無関心)」と思ったことにあったからです。

 この記事では母との衝突と無関心さ、そしてもし私が発達障害の子供を産んだ時、自身の経験を生かしてどう療育していきたいかを書き記していきます。

幼少の私と母

 私は2人姉妹の長女として生まれました。歩き出したり、言葉が出るようになるのが他の同年代の子と比べ遅かったと聞いています。4歳で幼稚園に入った時もどんくさく歩くのが遅かったため、同じクラスの男の子に意地悪されたこともありました。それらも実は発達障害が関係していたのかも知れません。

 そんな私が幼稚園から帰ってくると母は「今日は幼稚園で何をしてきたの?」と聞いたそうです。すると私は「朝幼稚園行って、ご挨拶をして、帰ってきた。」と答えたそうです(私は覚えていませんのが母の証言です)。そんな私を母は「いつもそればっかりでつまらなかった」と後に小学生になった私に言ったのです。

 母の質問が漠然としていて、私は何と答えていいか分からなかったのだと思います。幼稚園の頃からぼーっとしていることが多かった私を母は「何が好きなのか妹に比べて分からなかった」とも言っていました。でも私はちゃんと好きなものもあったし、やりたい事もあったはずですが「言語化能力」が低かったのか言葉ではうまく言い表せませんでした。今でもその傾向はあり、想いがうまく伝わらないことに歯がゆさを感じています。

 そのためか母は私の話をあまり聞いてくれなかったことを記憶しています。それゆえ、昔の記憶を辿っても「母が好き」と強く感じたことがなく、代わりに幼稚園の先生や、小学校1年生の時の担任の先生によくなついていました。今思えばその先生達は当時の母と同じくらいの歳でした。おそらく私は母の愛情を感じていなかったため、母の影を先生たちに求めてしまっていたのでしょう。

 育児放棄をされたわけでも、虐待を受けていたわけでもない。むしろ子供たちに手作りの洋服や3時のおやつを作ってくれていた母だったのですが、私はどうやらそれらを望んでいなかったようでした。私が望んでいたのは今も続いている感情で、「私の本質を理解してほしい」ことと「私の話を聞いてほしい」、その2点だけでした。

 そして小学校4年になってくるとだんだん、うまく友達とコミュニケーションが取れないこと、忘れ物をしてしまうこと、宿題が終わらないことを「私は人と比べてダメなんだ」と思うようになりました。しかし成績は良い方でしたし、得意なこともいっぱいありました。絵、作文、ピアノ、料理・・・ それらで表彰をされたこともあるくらいです。それに対して「褒めること」で何かとできないことが多い発達障害の子供の「承認欲求」を満たすことが大切なのです。

 しかし母は私を褒めることはなく、「お前は褒めると調子にのるから褒めるのをやめた」と言っていました(母の関心は妹にばかりに行っていました)。絵、作文、ピアノ、料理など「できる」ことに目を向けていかなければいけなかった時期に、うまく友達とコミュニケーションが取れない、忘れ物をしてしまうこと、宿題が終わらないなど「できない」ことに捉われてしまった事が将来に影を落としていく原因になったと感じています。つまり、発達障害の症状が悪化していった原因は子育てにあったのだと思います。

うつ状態の私に母は・・・

 そして私が19歳の頃が、発達障害の二次障害である「うつ病」の症状が一番強かった時期です。もちろん体にも異常があり、ご飯は食べられず1日1食食べられればいい方でした。吐いたりはしなかったもののいつも吐き気と戦う日々で、今も瘦せ型ではありますがそれよりさらに8kgも痩せていました。

 気持ちの落ち込み、体調不良、少し元気な時も何ができるわけではない状態でした。就いていた職も辞め、いわゆるニートでしたがこれは療養の為でした。しかし母は、あまり私の状態には触れず、言うことは「部屋を片付けろ」「食器を洗え」「お風呂をやって」と家事に関することだけでした。相変わらず、私に対しては無関心です。無関心どころか、私の二次障害の症状を悪化させているとさえ思います。

 うつ状態ではなくても、ADHDの私にとって何かを咎(とが)められることは「辛い」以外の何物でもありませんでしたが、酷い時には自分の存在価値ですら疑ってしまいました。もしこの時母が、「辛いことがあったら言って」と私に寄り添ってくれたなら、二次障害の症状が悪化することなく少しは和らいでいたのかと思ってしまいます。

疑心、そして・・・

 母と私がテレビ番組で発達障害の特集を観ていた時、母に「ねぇ、私もこれじゃないかな」と告げました。すると母は「えー、お前はこんなんじゃないでしょ」と一蹴しました。ここでも私に対する無関心さを発揮しています。

 しかし私はこの疑心を拭い去れなかったので、一人で病院へ行きました。そしてADHDの診断を受けました。正式に診断を下されたわけではなかったのですが、投薬治療としてストラテラを処方されました。しかしこのことは未だに母に言えないままです。文句を言われることが目に見えて分かるので、伝えられないのです。うまく伝えられない、伝えても受け入れてもらえない。こんな想いを肉親である母にいつも抱えているのです。

発達障害児の療育

 私は20代後半ですが、結婚を意識する年代です。段々と「もし私が発達障害を持つ子を産んだら」と考えるようになりました。発達障害を持っている子供は表現することが苦手なだけで何も考えていないわけではないです。

 時間はかかるけど、一つずつ丁寧にその子が表しやすい方法で感情や思いを表現させてやればいい。そのためにはいっぱいいっぱい話を聞いてあげることがいいのではないかと思っています。反面教師ではないですが、無関心は絶対にいけません。私みたいに症状が悪化するだけです。

 子供の育て方として今「褒めてばかりだと褒められていない時に自分はダメだと思ってしまう」ということが言われてきています。しかしこれは定型の子供に当てはまることで、感情をコントロールできずに自分でもどうしていいか分からない、感情が自分で理解できない発達障害児に関しては、できたことを褒め、「目に見えて分かりやすい結果」を与えてあげることが療育であり、自分の存在価値を見出してあげることなのではないかと思います。

 ここでは母との関係について記していきましたが、今こうして自分の意志で想いを伝えることができたのも、悩んで「どうしたらいいか」と自分で考え続けた結果だったと思っています。

[参考記事]
「幼少期から続く私のADHDの症状。1年に2台車を廃車に」

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