この記事は20代後半の男性に書いていただきました。
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私が発達障害のADHDの診断を受けたのは25歳の時です。従って成人して5年が経つまではいわるゆ『普通』の人間として生きて来ました。しかし障害は大人になってある日突然芽生えるものではありません。幼少期から発達障害の特性は確実にありましたが、両親や教師は私の発達障害に気づきませんでした。今回はなぜ私の発達障害は見落されたのか、その理由について書いていきます。
私の発達障害の特性
第一に私は色々な事が出来るようになるのが遅い子供だったように記憶しています。まずはオムツ離れは保育所の年少組になるギリギリまで出来なかったようです。蝶々結びや保育所で習う簡単な平仮名のお勉強やバタ足泳ぎ等はいつもクラスで最後に出来るようになる子でした(結局、蝶々結びは成人するまでできませんでした)。
小学校に上がると今度は平仮名で躓きました。私は物の形状を記憶したり、再現したりする能力に劣っていたため、保育所では書けた平仮名が小学校では書けなくなってしまったのです。平仮名一つ一つの形は分かるのにそれが幾つも繋がると混乱してしまっていたのです。保育所で出来た事が一年生になりできなくなった事が周囲の大人には「怠慢」に見えたらしく、厳しく叱責された事を憶えています。平仮名をなんとかクリアしても、もっと難関な漢字に躓きました。漢字テストはいつも0点〜2.3点で、字はミミズが這っているような状態で自分でも読めない有様。
動作性IQが低いせいか、かけっこやドッジボールではいつもビリ、友達との意思疎通も下手くそで中学に上がるまではしょっちゅう誰かと殴り合いの喧嘩をしていましたし、嫌いな先生の授業はボイコットしていました(ADHDの衝動性と多動性)。
何より苦手だったのは整理整頓と期限を守ることでランドセルや机の中はいつもぐちゃぐちゃ(これは成長してもマシになった程度で苦手なままです)、プリントの渡し忘れはいつもの事で、宿題も小学3年生ぐらいからまったく提出しなくなりました(ADHDの不注意性)。
なぜ私の発達障害に両親や教師は気づかなかったのか?
ここまで書いてみると当時からかなり発達障害児的なサインがありながら、何故当時は見落されてしまったのか自分でも不思議になりますが、母と話をする中でいくつか母や周りの大人が私の発達障害を見逃した理由が分かりました。
まず何よりも私は上記のような素行でありながら学力テストの点数は平均よりやや下ぐらいで済んでいた事だと思います。得意と苦手がはっきりしており、100点も有れば30点もあるという形ながらも全体でみれば平均に近い範囲であっため、周りの大人達は「まるで出来ないわけではなく怠惰なだけ」「社会の難しいテストで100点が取れるのに簡単な算数のテストで20点なのはやる気の問題」と私を分析したようです。また私自身も「苦手な事はまるで出来ない自分」を認めたくないが故に「やる気がないワル」を気取ってしまっていました。本当はやっても出来ないのに「本当は出来るけどダルいからやらない!」と周りに見せていたのです。結局この「敢えてやらないように見せかけるスタイル」は就職し、仕事上の避けられない壁にぶつかるまで続いてしまい、私が私自身の特性を知る上で大きな障害になりました。
最後に
私は実は小中学生時代に「自分は周りの子達に比べて足りない部分があるのではないか?」「普通ではないのではない?」という感覚はありました。しかし思春期の自分にはそれを認める事は出来ず、周りの大人の「お前はやる気がないだけ!」「やれば出来る!」の言葉もあり、社会人になり周囲からはっきりした指摘や攻撃を受けるまで自ら発達障害の診断を受けるという選択ができませんでした。「もし自分がやる気を出しても出来ない人間だとバレたら周囲の人々に失望されてしまう」と考え、やる気が無いアピールを必死に行ない、見当違いの方向に走ってしまったのがこれまでの人生でした。
子供の能力を信じて待ってあげる事は非常に大切な事だと思いますが、これは健常者の子供の場合です。発達障害の子供の場合には早い時期で療育を受けさせ、大人になってから生きやすくしてあげることが親の責務だと感じます。