この記事は30代の女性に書いていただきました。
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私(30代女性)には、歳の離れた発達障害(自閉症スペクトラム)の兄がいます。小さい頃は家族の中に当たり前にいる存在で、ただ単に「兄」という認識でした。
その頃はまだ「発達障害」という概念があまり浸透しておらず、親の育て方の問題だと言われる時期でもありました。兄が外で問題を起こす度に母親は菓子折りをもって怪我をさせた親御さんへ謝罪に行くのも「反抗期だから」と幼心に思っていました。親が虐待に近い暴力的な躾をしていても、それは悪いことをしたからだと信じていたのです。
ですが、親の転勤により変わってしまった環境が兄の「発達障害」に気づくきっかけになりました。
まず父の転勤で兄は新しい中学校に馴染めず不登校になりました。環境の変化に弱いのも自閉症スペクトラムの特徴です。転勤前まで兄は慣れ親しんだ友人と話したり遊んだりと楽しそうでした。家でもとてもよく喋る兄でした。
兄の不登校に伴い私にも変化が生じました。クラスメイトから「お前の兄ちゃん頭おかしい」という言葉を言われるようになったのです。これだけでも結構参る事でしたが、これはまだ可愛いものでした。家に帰ると兄が暴れ、母親は鬱病に、父は仕事で家におらず。そして二世帯住宅の祖父母がうるさいと怒鳴り込んでくることも。
そうした家の中で私は当事者である兄と大喧嘩もしましたし、母親の鬱の介護も小学生ながらにこなしていました。
兄は不登校のまま中学を卒業しましたが、両親は意を決し、兄を他県の高校に下宿させることにしました。結果は散々なことに。「島流しにあった」と兄は憤慨。精神的に不安定になり2ヶ月に一回は結局不登校状態で帰省することになり、そこで大喧嘩。一応卒業できましたが、下宿させたことは失敗でした。
兄弟児
この頃私は兄が嫌いでした。「障害があることでどんなに悪いことをしても、かばってもらえる。障害があっても悪い事をした事に変わりはないのに」と思っていました。
「きょうだい児」という言葉をご存知でしょうか。病気や障害をもつ子の兄弟姉妹をそう呼ぶそうです。このような特別な言い方をする背景には、障害を持つ子の兄弟姉妹は、我慢を強いられたり、寂しい思いをすることが多く、それによる様々な弊害が心配されているということがあります。
嫌だったのは兄の行動よりも、小学生の時に父親から言われた一言でした。「お前が賢いのだからお兄ちゃんの出来ない事を助けてあげなくてはいけない。お兄ちゃんは『兄』なのだから『兄』として扱わなくてはいけない」と。
父親が言うことはもっともでした。ただ「小学生に言うことではない。頭で納得できても、心が納得できない」と憤慨しました。これが子供心にすごく嫌だったのでよく覚えています。
家だけではなく、学校でも辛い思い出があります。障害者の兄弟ということで苦しかったのは校内でおふざけとして飛び交う「お前の兄、障害者かよ。精神科いけよ」という心無い言葉でした。「お前に何がわかるんだ」と心が暗くなりました。
学校も家も嫌になっていた私は高校に進学する前には精神科に通院するまでに追い込まれました。当時の診断は「不安障害」。ここまでくると「私も家の中で守ってもらえるのだろうか」と希望を抱きましたが、変わることはありませんでした。
ただ医師とカウンセラーだけは私の話を聞いてくれました。そのお陰で、公立高校を不登校で辞めることになっても諦めず、通信制過程の高校を卒業して大学に行きました。
ただ私はずっと精神疾患は抱えたままでした。大学での心理学や福祉の勉強は好きで、人一倍勉強しましたが駄目でした。この頃、病院で双極性障害(躁鬱病)と診断されましたが、実習の前に倒れたり、入院をしたことで必要な単位を落としてしまったのです(双極性障害は後に誤診だと分かりました)。
今の私の考え
私は発達障害者の兄弟児に生まれ、綴り切れないほどの多々の出来事がありました。その結果、初めは躁鬱病と診断を受け、後に解離性障害とPTSDだということが分かりました。
自分の精神を何個も切りはなして置き去りにすることで解離性障害になるのですが、進行すると解離性同一性障害(過去名称:多重人格障害)になります。嫌な記憶が鮮明に思い出されるPTSDも解離性障害の人間がなりやすいことです。
わかってほしいのは「発達障害」や「精神疾患」にもっと理解が有る国や地域であれば、本人も家族も茨の道ではなかったということです。
私は今、結婚をしていますので、兄とは離れて生きています。「発達障害の子が産まれた時、その子を守れるだろうか」と不安がありますが、そんなことを考えていたら前進できません。もちろん、不安がないと言ったら嘘になりますが、今までの経験が生きるときがきっとあると信じて、これからも生きていきます。
[参考記事]
「発達障害の子ども達の兄弟姉妹関係で気をつけたいこと」