「忘れ物」「遅刻」「休む」「締め切りを守れない」…これらはADHDの不注意優勢型を患う人の特徴的な症状です。
でもこれって、ADHDを持たない普通の人でもよくある事ですよね。そのせいか、「こんなの自分だってあるよ」「障害じゃない、怠け病だ」といった感想を言う人が沢山います。
私自身も、まさかこんな事が障害のせいだとは思いもせず、「自分の気合が足りないからだ」と本気で思っていました。
学校生活は周りと足並みを揃える事が重要視されます。先生たちにも一人にだけ甘い顔をするわけにも行きませんから、怒られるし理由を追求される日々。
直さなきゃとは思うけど、どうしたらいいか分からない…。言い訳のネタも尽きてしまった頃、「自分はこういう適当なキャラなんだ」と周囲に認めてもらう事で生活がしやすくなる事に気付きました。
当時はそれで日々を乗り切っていた反面、あの時もう少し自分と向き合えていたらという思いもあります。
罪悪感だけが溜まって行くことへの解決策
話は小学校低学年の頃までさかのぼります。何度注意されても、キツく怒られても、凄く反省しても、やっぱり忘れ物だったり、宿題を出来なかったりを繰り返してしまっていました。先生は呆れ顔だし、クラスメイトの前で盛大に怒られて恥ずかしいし、立たされた事も何度もありました。
授業は大好きでいつも集中して聞いていたせいか、宿題はしなくてもテストは90点台後半を沢山取っていました。だからこそ余計に、「出来るのにやらない」子だという評価を受けていたように思います。
そんな嫌な思いをしても、何故か同じ事を繰り返してしまう私。理由が分からないのに改善なんてできません。自分はなんてダメな人間なんだ…と子供ながらに生きにくさを感じていました。
そんな中、中学生あたりから適当なキャラを演じる事が楽だと悟り始めます。宿題や遅刻、欠席について聞かれても、「ごめんなさーい!」とニコニコしていれば、あまり怒られない事に気が付いたんです。
たまに熱血先生にきつく叱られる事もありましたが、大抵は「今度こそちゃんと宿題出せよー」といった軽い催促をされるくらいでした。
「この子に言っても無駄だ」と思われてしまえば何も聞かれず、白々しい言い訳を考える必要がなくなるんです。これが当時の私の、子供なりの解決策でした。
適当キャラが板についた高校時代、そして自尊心が低くなる
高校は、地元の偏差値68の進学校へ進みました。これまでは勉強は何とかなっていましたが、さすがに進学校で毎日の課題をこなさず、授業も頻繁に休んでいたらどんどん落ちこぼれて行きます。しかしこの頃には「まったく、お前はいつもしょうがないなぁ」と先生からも友達からも笑いながらイジられるポジションを確立していました。
朝気持ちが切り替えられずになかなか家を出られない時、遅刻して途中から教室に入るのって結構勇気が必要ですが、友達にもそういう適当キャラだと思われていれば陰口なども叩かれず、案外みんな笑いながらすんなり受け入れてくれるんです。
休み過ぎて留年の危機になったり、数学で赤点を取り過ぎて単位を落としそうになったりしていましたが、友達も先生も、「助けてあげないと危なっかしい」という感じでサポートをしてくれていたように思います。
期待もされないから、無理もしない。自由に過ごせて楽でしたが、だんだん演じているのか自分の本質なのか分からなくなってしまい、高校が終わる頃には落ちこぼれの自分を受け入れていました。本来の自分は勉強や努力が大好きなのに、勉強嫌いの怠け者を演じているうちにそれが本当の自分だと思い込んでしまい、頑張る事をしなくなっていたのです。
この過程で培った自尊心の低さは、自力でアメリカへ正規留学して成果を出すまで続きました。今思えば、中高生の頃にもう少し自分の性質や本心と向き合えていたら、10台後半をもっと有意義に過ごせたのになと悔しく思います。
脳の障害という自覚をもって正しいアプローチをすれば、ADHDの人だってミスの割合をぐっと減らすことが可能です(0にはなりませんが)。
私のように良く分からないまま楽な方向へ逃げてしまわず、早いうちから自分の症状を理解して対処する子供たちや、そんな子供たちを正しい方向にサポートする大人が増えて欲しいなと思います。