この記事は20代の女性に書いていただきました。
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かつて「子どもの病気」とされていたADHDですが、現在では大人になってからも多くの人にその症状が残ることが明らかになっています。私の場合、子どもの頃はADHDと誰にも気付かれず、成人後に診断を受けたので「大人になってからも症状が続いた」典型例と言えるでしょう。小さい頃から療育を受けていれば少しは症状は落ち着いていたかもしれませんが、今さら言っても仕方がありません。
具体的にどんな症状があってどのような壁にぶつかったのか、詳しくお話ししていきます。
ADHDであることが発覚した大学時代
高校卒業後は一旦都内の某私大に入学しましたが、大学の雰囲気や都会での生活になじめず、2か月で適応障害を発症して休学。地元に戻ってしばらく療養したあと、自宅浪人を経て高校の時から憧れていた別の大学に合格しました。
憧れの大学に入学できたことで当初は意気揚々としていましたが、ここでもやはり新生活につまずいてしまいます。朝起きられず授業に間に合わないので、何度も欠席してしまう。授業に出ても全く集中して聞くことができず、勉強についていけない。課題を期限内に提出することができない、もしくは課題が出されていることすら忘れてしまう。友達を作るのが苦手で学部内で孤立してしまい、授業のノートや先輩から代々伝わっているテスト対策プリントなどを手に入れるツテがない――などなど、おそらくADHDが関係していると思われるさまざまな要因で単位を落としまくり、2年生の時点で留年が確定。自暴自棄になり、家に引きこもって自殺を考えるまでになりました。
しかし、たまたまADHDについて知る機会があり、「これは自分のことだ」と思ったことによってついに精神科を受診。ADHDの診断が下りてからは状況が少し好転しました。まず大学の保健管理センターに行って自分がADHDであることを相談し、学校での過ごし方や生活に関するアドバイスをもらったり、テスト勉強のスケジューリングを手伝ってもらうなどのサポートを受けました。また、病院で二次障害による気分の上下を抑える薬を処方してもらったことで、ADHDの症状そのものは収まらずとも幾分生きやすくなりました。そのおかげか、同級生に半年遅れはとったもののなんとか無事大学を卒業することができたのです。
地獄の新社会人生活
大学卒業後は、紆余曲折を経て小さな出版社に入社しました。仕事がきついことは覚悟のうえで「それでもやっぱり編集の仕事がしたい!」と思って入社を決めましたが、その業務の大変さはADHDの私にとっては想像を遥かに上回るものでした。
よく「ADHDの脳はシングルタスクしかこなせない」などと言われていますが、編集者の仕事は非常にハードなマルチタスクです。企画、アポイント、打ち合わせ、日程調整、取材、原稿作成、デザインの原案作成、校正などのさまざまな仕事をすべて自分たちで行わなければなりません。また、それが2媒体分同時期に重なるなんてこともざらにあります。そのため、あまりの同時進行っぷりに、今自分が何をやるべきなのかということが分からなくなったり、重要な仕事をすっかり忘れてしまったりなんてことはしょっちゅうありました。そのたびに上司に怒鳴られ、同僚からは呆れた目で見られ、クライアントに頭を下げまくり、どんどんストレスで心が死んでいくのがわかりました。
この状況をなんとか打破したいと、コンサータが認可されてからは服用を始めました。すると日中の眠気やぼーっとする感じが綺麗さっぱりなくなり、明らかな集中力の向上を実感。ただし、一番問題だった注意力の欠如には私の場合は全く効果がありませんでした。そのため、服用後も相変わらずミスを繰り返しては怒られていました。
そんな状況のまま4年ほど会社勤めを続けていましたが、ある時ついに限界が訪れ、大事な仕事中に過呼吸発作と胸痛を起こして倒れてしまいました。もうこれ以上続けるのは無理だと思い、ひとまず休職。その後、家族や医師の勧めもあって退職しました。数か月の療養を経て、現在は自分のペースで働ける環境で前職の経験を活かせる仕事をしています。幸い今の仕事はシングルタスクで責任も重くはないため、ADHDの私でもなんとか働くことができています。