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娘の発達障害に気づいた経緯と通常学級での不安

 

この記事は発達障害の娘さんを育てている30代の女性に書いていただきました。

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小さな小さな赤ちゃん

 妊娠7か月の終わりごろ、産婦人科の担当医から「胎内での発育がゆっくりすぎますね。管理入院してもらいましょう」と言われて、そのまま入院することになってしまいました。過去に妊娠高血圧が悪化して胎内で赤ちゃんが死んでしまった経験があるため、今回の妊娠も初期から「ハイリスク」ということでとても不安でした。案の定、安定期に入った途端に妊娠糖尿病を合併してしまい、インスリンを打ちながらの妊娠生活でした。そして、胎児の発育が悪いということで管理入院をしました。

 1週間後、逆子ということもあり帝王切開での出産となりました。体重896gの小さな赤ちゃんでした。完全母乳で布おむつ育児をしていたのですが、おむつが濡れてもあまり泣かなかったので、おむつ替えのタイミングを計るのがとても難しい赤ちゃんでした。わたしが外出しなければならないときなど、夫や義母に哺乳瓶を預けて飲ませてもらうようにお願いすることもありましたが、哺乳瓶を嫌がっては泣きという状態で飲んでくれませんでした。そして、体重の増え方が遅いからミルクの量を足すように栄養指導をされても全く受け付けませんでした。

娘の発達障害に気づいた経緯

 よく笑い、よくカタコトを喋る子でしたが、歩き始めたときに少しずつ発達障害の兆候が見え始めました。いくら直そうとしてもつま先立ちで歩こうとするのです。ネットで検索してみると、「つま先立ちで歩く子は発達障害の可能性がある」と出ていたので、怪しいかもと思い始めました。

 また、話して聞かせようとしてもなかなか目を合わせようとしないし、人見知りをほとんどしないで誰にでも平気で話しかけては無理にコミュニケーションを取ろうとする、などの特徴が成長するにしたがって顕著になりました。幼稚園入園後は一方的なコミュニケーションのためにクラスの子とたびたびトラブルを起こすようになってしまいました。

 幼稚園の年中の時、私は学習教室を運営することになり、数回娘を連れて行きました。しかし、何度言い聞かせても学習中の小学生に話しかけたり、ちょっかいを出したりして邪魔をしてしまうのです。年中の家庭訪問の時に担任の先生からもコミュニケーショントラブルのことを聞かされ、「これは発達障害に間違いないな」と思って市のこども療育センターに相談をすることに決めました。

発達障害の診断

 療育センターで面談を行い、「自閉症スペクトラムの可能性があります。発達障害の子を対象とした少人数のグループで療育を行うから参加してみませんか」と言われ、二つ返事で参加を決めました。療育に申し込んだ目的は「物事の切り替え」が出来るようになるためです。お絵描きや工作をしている時に時間になっても、どうしても「最後まで(納得するまで)やる!」と聞かなかったりと気持ちの切り替えが出来ません。

 そうかと思えば「注意欠陥(ADHD)」の傾向もあり、一つのことをしているのに次から次へと興味の対象を見つけてはそちらの方へと流れてしまい、集中力がなかなか続きません。その結果、どんどん時間が過ぎてしまい、「時間内にやるべきこと」が中途半端になってしまうので、なかなか止められないのです。無理に止めさせようとすると癇癪(かんしゃく)を起こします。

 療育では自己紹介や体を使った遊び、工作や読み聞かせなどのプログラムで行われていましたが、行動の切り替えが改善することはほとんどありませんでした。自分が納得しないことに対する癇癪もエスカレートする一方。

 年長になっても傾向が変わらなかったため、夏に受診して発達障害(自閉スペクトラム)の診断を受けました。私の中では、「やっぱりな」という思いしかありませんでした。

就学時健診

 就学時健診の時期になると、果たして通常学級でやっていけるのかという不安が出てきました。健診のあと、問題のある子は自宅に学校から連絡があるというのでびくびくしながら過ごしていると、やはり市の教育センターで面談を受けるようにとの連絡がありました。

 面談では、先生から聞いている幼稚園での様子をすべてお話しするつもりでいました。ところが、面談予定日の直前になって、私が急病で倒れてしまい、2週間入院することとなってしまったのです。面談には夫に行ってもらいました。結果、「通常学級に通いながら、サポートしていくようにしましょう」ということでした。福岡にいる私の母は「就学猶予してもらったら?」と言っていましたが、就学猶予に当たるような障害もないので、そのまま就学させることになりました。

2つの小学校

 3月末に、私の仕事の都合で私と娘だけ大阪に転居することになりました。転居して2週間でもう入学式。あわただしく日々が過ぎていく中、集団登校の上級生とトラブルを起こすようになっていきました。男の子がふざけてちょっと娘をつついただけなのに、派手に転んで大声で泣きわめいたり、女の子にベタベタくっつこうとして避けられてしまい、集団の列に置いていかれるというようなことも起こり始めました。

 私の仕事は収入面で厳しく、2つの仕事を掛け持ちしなければなりませんでした。体も心も疲れていましたが、通勤のついでに娘たちの列についていって様子を見る、という生活が続きました。クラスでも相変わらず行動の切り替えが難しく、先生も苦慮されているようでした。毎日出される宿題にも、私が口うるさく言わないと手を付けませんでした。

 教頭先生からは、2年生以降の支援学級の話(通常学級から支援学級へ)が出始めました。ちょうどその頃、情緒面の成長を見て取ることができない娘の状況と、思うようにいかない私の経済状態の中で、私の心身の疲労がピークに達しました。ある日、登校の支度がなかなか進まない娘を前に、「死にたい」と口にして泣き叫んでしまったのです。このことがきっかけで「うつ状態」と診断され、仕事を2つとも退職して夫がそのまま残っている自宅に引き揚げることになったのです。

 転校した学校でも「ターゲット」になる子を見つけるとベタベタくっついてしまい、一度一緒に遊んでも避けられることが多かったです。そんな娘と毎日二人っきりでいると私がまた消耗してしまうと思い、放課後等デイサービスに通えないか、相談をしてみることにしました。幸い、比較的近いところで送迎もしてくれるところが見つかったので、夏休みからそこにお世話になることにしました。今では学校の話よりも放課後等デイサービスの話の方が良く出るほどです。

支援学級を勧められる

 娘は漢字の書き取りが苦手で、狭いスペースに小さい字で書くのを嫌がりました。読むことは得意で、難しい漢字の読みをさっと覚えますが、とにかく書くことを嫌がります。簡単なひらがなでもまだ形が整っていなかったり、間違った字を書いたりします(発達障害の一つ「学習障害」も合併しているかもしれません)。体育では準備体操の時に一人だけしゃがみ込んで何もしようとしません。

 そんな娘の様子を見た校長先生が、「通常学級では困難もあるだろうから支援学級を検討してみたらどうか」と言い出しました。実際に近くの小学校の支援学級に見学にも行きましたが、情緒支援学級(自閉症などの発達障害の子たちがいる教室)の子たちも知的支援学級と同じようなプログラムで進められ、学年相当の内容は教えてもらえないような感じだったので、まず夫が猛反対しました。

 私も初めこそ数人の中でならやっていけるだろうと思って前向きに考えようとしましたが、知的な困難が全くないのに「100円でお菓子を2個買うには何と何を買ったらよいか」という授業をしていることに違和感を覚え、支援学級は考えられないと校長先生に伝えました。本人は放課後等デイサービスの友達の中に支援学級や特別支援学校に通っている子がいるためそちらにも興味を示しますが、私は娘を通常学級で学校生活を送らせます。

[参考記事]
「自閉症スペクトラムと診断された娘の成長記録」

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