この記事は発達障害の診断を受けている20代の女性に書いていただきました。
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私は発達障害の一種であるADHDと診断されたのは成人になってからです。ずっと劣等感を感じていたのは、「友達が少ないこと」と「仕事が上手くいかないこと」でした。それらはADHDの二次障害が影響しているのだと知ったのは、発達障害と診断され、ADHDの性質を調べていた時でした。
ネットで調べていた時に「二次障害」という言葉が目に飛び込んできて、その内容は私が今まで悩んできたことと全く同じことが書かれていたのです。自己肯定感の低さ、うつ病、対人恐怖……。これらは二次障害の典型例ですが、私にも当てはまりました。友達が少ないこと、仕事が出来ないことも裏を返せば自分がダメな人間だと思い込んでしまうことにあったのだと思います。
宇宙人と称された子供時代
小学生の頃、一人遊びが好きでした。休み時間になったら一人で虫を捕まえたり、学校から帰るとテレビゲームで遊ぶことが多かったです。友達と遊ぶことはあっても、友達と一緒にいたいと強く思ったことはあまりなかったと記憶しています。むしろ少しまわりをバカにしているところもありました。
特定の友達がいないことは全くと言っていいほど気にしていなかったのですが、最初の劣等感は母親に妹と比較されたことでした。妹は女の子の友達が多く、「〇〇ちゃん(妹)はお友達と仲良くできていいねー」と私を目の前で言ったのでした。今思えばあまり気にすることでもなかった言葉だったのですが、当時の私はこの言葉を重く受け止め、「私は友達が少ないからダメ人間なんだ」と思い込んでしまいました。
本来であればこの小学生の段階で親や学校のサポートが必要でしたが、何も対応をしてくれず、中学校になってもこの傾向は続きました(もっと言えば2才や3才頃から療育を受けたかった)。中学時代、自分の中ではつじつまが合っている言動や行動も、周りは好奇の目で見ていたのでしょう。
例えば授業中何かを思いついて急に声をあげたり、はしゃぎすぎて掃除用具入れのロッカーを壊したり…。それも「我関せず」と言った具合でしたし、周りからどう見られてるかはあまり気にはしていませんでした。かなり、物に当たっていた傾向がありましたが、これも二次障害の典型です。人に暴力を振るうなどの反社会行為が二次障害として見られるのですが、私の場合には物に当たっていたので、(事件にならず)幸いでした。
こんな中学時代でしたが、いじめを受けていたわけでもなく、話す友達もいたのですが、特定の友達はいませんでした。つまり、対人関係の技術が完全に欠落していたのです。部活の友達から「宇宙人」と呼ばれたりしましたが、どうしていいかも分からず、どうにかしてまわりに溶け込もうとしましたが、それは無理でした。小さい頃からの療育が大事だと言われていますが、これには大賛成します。私の場合、成人になってから発達障害の診断を受けたので、「療育」なんて言葉を聞いたのも最近の話です。
うつを意識した時
高校卒業後、食品会社で働いていたのですが、土日祝日がきっちり休みの仕事でした。ただ特定の友達がいなかった私は、毎週家にいることもあり孤独感が募ってついに体にも異変が表れました。もちろん、孤独だけが原因ではないですが、小さい頃からの辛い積み重ねがここにきて容量オーバーになったようです。ご飯が食べられない、食べると気持ち悪くなる、胃が常に痛い・・・
この会社は退職したのですが、体重は今の8kgも減ってしまいました。加えてうつ状態に・・・。体調不良で1日のほとんどをベットで過ごす毎日を「これなら死んだほうがまし」と思いましたし、家族にすら気を遣い、嫌われているのではないかと被害妄想に取りつかれていました。
その上、母親は私の精神状態について理解しておらず、「毎日家にいるなら家事をしてよ!」と言い放ち、私は家にも居場所がないと思い込んでいた日々でした(親がバカであれば子供はダメになる典型例ではないでしょうか)。それでもどうにかして独りではないと思いたかったので、友達に連絡をしたり、なるべく人と関わろうとしていました。
1年ほど経った頃、そういった症状も治まり再び働き始めた時、さらなる異変に気付きました。今までのうつ状態から躁状態(うつと反対の状態)になり、異様なハイテンション、「生きているのは何て素晴らしいんだ!」と周りに吹聴していました。これは双極性障害(躁うつ病)と言われていますが、やはり二次障害です。
彼氏や彼氏の友達など数人で遊びに行った時も、彼氏の友達に「男女の運命って信じますか?」と言い放ち(別にその彼氏の友達をいいなと思ったわけでもなんでもありません)、彼氏にも「誘うんじゃなかった」と言われる始末でした。
嫌われたくない、認められたい
食品会社を辞めてからイタリアンレストランに転職をしました。シェフに嫌われたくない、認められたいとかなり張り切って働いていたのですが、注文を忘れる、皿を割る、レジを間違える、そして「自分がダメだ」と認めたくないので言い訳をする・・・
今思えば発達障害のADHDの性質だった訳ですが、もっと頑張らなきゃ、頑張らなきゃと家に帰ってもノートにメニューや仕事の内容を書き留め、夢でも働いていていたのか寝言で接客をしている内容を言ったりしていたようです。
ただ頑張れば頑張るほど空回り、シェフから辞職を勧告され、いよいよ「私は生きていても価値がない」と思うようになりました。友達も少ない、仕事もできない・・・自分では自分の価値を見つけることができない。こんなダメな自分を愛することができない。「自殺」という言葉が何度も頭をよぎりました。二次障害による自己肯定感の低さがだんだん深くなるのですが、それでも頑張って生きたいと切り替えることができた自分を、今となっては褒めてやりたいところなのですが・・・。
自己肯定感が低くなったり、それを多少持ち直す…というのは一生続くのでしょうね。宿命でしょうか、運命でしょうか………。
今も続く生きる意味を探す旅
現在は仕事(乗馬の仕事)を11年間続けることができ、今では友達にも恵まれているのですが「価値の低い自分」と思い込むことを変えるのはなかなか難しいようです。いつも、自分を変えたい、好きな自分になりたいと模索する毎日で、親しい人から言わせると「わざわざ自分を追い詰めてる」と思うようです。この感覚はなかなか理解がし難いことなのかもしれません。この性質をなくすことは不可能ですが、少しでも自分を受け入れていけるように生きられたらかなり楽なのかなと思います。
躁うつ傾向も今でも続き、どうにかして治せないかと心理学を学んだり、少しでも「生きる意味」を探す毎日です。これは一生続く私の仕事(宿命)です。