この記事は50代の女性に書いていただきました。
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「健常者」といわれる皆さんにとって、私たち発達障害者が常時どのような「感覚の世界」で生活しているのか、具体的にはおわかりにならない部分、不思議に感じられる点が大きいだろうと思います。
そこで、本日は実際に発達障害を事由とした精神障害者保健福祉手帳1級を所持する筆者自身の「感覚」の具体例を幾つか挙げてみることといたします。拙記事から「発達障害者が実はこういう感覚を持ちながら暮らしているんだなあ」という読者の皆さんのなかでの理解に多少なりとも繋がればいいなと願っています。
参考※私のスペックです
・五十歳女性 既婚(現在は離婚)単身生活 有職
・発達障害を事由にした障害年金を受給している以外、現状、障害その他の制度や支援、福祉サービス利用はナシ
・三歳児検診で知的障害を疑われ、その後療育手帳B2取得(再判定の結果のちに返納)
現在は精神の手帳1級を所持するほか、二次障害の治療に使用した向精神薬による副作用が原因で歩行困難に陥ったため身体の手帳Ⅰ種2級を取得
・就学時診断の知能テストの結果、知的な遅れが認められるとされ、今でいう特別支援学級へ就学。小学校5年生から普通級へ転籍
・直近では四十七歳時に障害年金請求のために、児童精神科を標榜する医療機関において、田中ビネーⅤ(IQ70・精神年齢十一歳三ヶ月程度)、WISC-Ⅲ(言語性IQ>動作性IQ・詳細な結果は本人にも非公開)
上記の知能検査、その他ロールシャッハテストなど各種の心理検査を受け、発達障害を事由とする精神障害1級相当と正式診断された
時間や物事の流れを把握する際の特異性
私は子どもの時からピアノを弾いて遊ぶのが好きでした。ただ、きちんと先生からレッスンをつけていただいたのは成人後です。幼少期の私は併せ持つ学習障害のために横書きのテキストがさっぱり理解できないという障害特性があり、音譜の意味は理解できても(横書きの)楽譜が全く読めなかったのです。
また、芸事はとにかくレッスンが厳しければ厳しいほど上達するという考えが主流だった当時の指導法について、当時の私は少しも馴染まない子どもでした。ピアノも何度か先生についてレッスンを受けたものの、当時は結局長続きしませんでした。
四十歳を迎える頃、Excelが上達するにつれて横書きのものもある程度理解できるようになった私は、本格的に先生にピアノのレッスンをつけてもらうことになりました。
それまでは全て「耳コピ」で曲をマスターしていた私でしたが、楽譜を読めるようになったことによって、ぐっとピアノの練習が面白くなりました。これまで勘でどうにか弾けていた曲であっても、改めて楽譜を見て弾くと「ああ、この曲にはこんな意味があったんだ」という新たな驚きが見つかるのです。
しかし、私のなかでの曲の「尺」についての理解は、レッスンをつけてくださる先生のどなたも同じように「どうしてあなたはこういうふうに捉えているのか理解に苦しむ」とおっしゃいます。
例えば楽譜の冒頭には速度の説明があります。「moderato」とあれば「ゆっくりと」弾くべきであり、「andante」とあれば「歩く速度で」「allegro」と記載されていれば「急いで弾く」べきですが、これらの表示がその意味こそわかっても…実際にはどういう尺で演奏すればいいのか、私には全くわかりません。
楽譜によっては「♩=100(1分間に四分音符を100個弾く速さで、の意)」といった表示がなされている場合もあります。このような時にはメトロノームをセットし、だいたいの感覚を掴むのですが、それでも「曲の尺」がわかっているのかといえば、きっと違うでしょう。
メトロノーム(ドイツ語: Metronom、英語: metronome)は、一定の間隔で音を刻み、楽器を演奏あるいは練習する際にテンポを合わせるために使う音楽用具である。
ウイキペディアより引用
それでは、理解力に障害を持つ私が、どのように曲の速度や尺をイメージするのか、わかりやすくお話いたします。
私は楽譜を読んでその曲の速度の説明を一旦頭に入れた上、模範演奏のCDを聴き、演奏時間から理想の尺に合わせる努力をし続けるのです。具体的には「現在私自身はこの曲を1分20秒で弾いているけれども、1分40秒の尺で演奏すれば全体の曲想としてベストに近づくだろう」と、自分のなかで理想の曲の速度イメージを構築するのです。
こういう発達障害を有する私の独特な感覚は「健常者」と呼ばれる立場の先生にとって「本当に理解に苦しむわ~」としか受け止められないのだそうです。
しかし先日、私は同じように大人になってからピアノのレッスンを始めたという発達障害をお持ちの男性と話す機会を得ました。その時に伺った「僕は専らYouTube動画の模範演奏がどれだけの時間によるかで、ベストの演奏速度を割り出しています」という彼の言葉に「ああ、やっぱりそうなんだよね」とやたら腑に落ちた心持に至りました。
確かに全ての発達障害者がこんな感覚を抱えているのだとは思いません。ただ、ピアノのレッスンにおける私特有の「尺の理解」というのは、発達障害者にとっての時間や物事の流れ(経過の理解)に対する感覚が、健常者の理解とは時にかなりかけ離れている場合もあるのだ…ということを如実に示す一例だとは常々感じます。
特定の食べ物へのこだわりから生じる「偏食」
発達障害児を育てるお母さんがよく口にしがちな悩みのひとつに「我が子の偏食」が挙げられるかと思います。私自身、子どもの時には本当に特定の食べ物へのこだわりの強さが文字通り異常で、食べられるもののほうが「苦手なもの」より少ないといった体たらくでした。当然「好き嫌いばかりする悪い子」と、大人は皆口を揃えるかのように、当時の私を過小評価していました。
しかし、当の私はどうだったのかといえば、妥当な表現かどうかわかりませんが…「好き嫌いをしている」というよりはむしろ「ある特定の食べ物が好き過ぎる=こだわりが強い」から「他の食べ物に興味が湧かない」という表現のほうが、より自分の気持ちにしっくりきます。
例えば、私にとって納豆にこだわっている期間は、朝のみならず昼も夜も…間食ですら「納豆だけで」いいのです。納豆にこだわっている以上ご飯は要りません。私はただ納豆だけが食べたいのです。「ご飯に納豆を載せて食べる」という健常者の概念みたいなものが、発達障害を有する私には感覚として理解できません。私は「ただ納豆だけが食べたい」という点にこだわっているのです。
もう少しこだわりについて深く述べるとしましょう。私のこだわりが「納豆にマヨネーズを混ぜて食する」というものだったとします。それが普通の方の味覚にはおよそそぐわない食べ方だったとしても「私なりの納豆の食べ方」に対するこだわりである以上「納豆には葱を加える」「納豆には辛子と醤油を混ぜる」という食べ方は、わかりやすい表現にするならあくまで「他の人が食べる納豆」なのであって「私の納豆」ではないのです。
もうここまでくると「私にとっての納豆」の定義とは「マヨネーズを混ぜたもの」でしかないのです。妙な例えになりましたが、発達障害特有の偏食=こだわりというのはそういう感覚です。
このようなお話ができるのも、私自身が成人し、それなりに言葉による説明が上達したからこそ可能になったのだという気もしています。子どもの時には、私自身のなかでもこのように言葉による説明(折り合い)がついていなかったせいで、その発達障害特有の感覚を、幼少期の私は言葉で訴えることすら困難だったのです。
偏食が自分の身体に及ぼす悪い影響を理解し、さらにこだわりを和らげる努力を重ねていくうち、現在の私は偏食が一切なくなったこと。さらに意識して偏食を修正していくうちに、日常生活にも支障をきたすほどだった私自身の物事へのこだわりも、次第に改善の方向性に向かいつつある事実について、敢えて特記しておきたいと思います。
バスで同じ席に座りたい
知的な障害の有無に関わらず、乗り物ではいつも「お気に入りの席」が決まっていて、常に同じ席に着くことに対し、強いこだわりを見せる発達障害児者も少なくはないことでしょう。
特にラッシュアワーの混雑したバス車内において、乗車のたびに毎回同じ席に激しくこだわる子どもさんをお連れの保護者は、時に車内で「指定席」に座れなかった我が子にパニックを起こされ、肩身の狭い思いをされたご経験も多いのではないでしょうか。
このような行動も「特定の席にこだわっている」というよりはむしろ「車窓から見える風景にこだわっている」場合が多いように、私自身の経験を通して感じています。
特にラッシュアワーで、知らない人たちが車内でぎゅうぎゅう詰めになっていればいるほど、いつも見ている車窓からの景色が違って映り、子どもは不安になってしまうのです。
程度の差はあれ、私たち発達障害者は「いつもと違うシチュエーション」がとても苦手です。例えば通学路のルートが変わること、同じルートであっても途中で道路工事が行われていて、普段はない標識が視界に入ってしまっただけでも、発達障害を持つ子どもさんにとっては「いつもとは違う」状況なので不安になったり、落ち着かなくなったパニックに至ってしまったりするものなのです。
だから、彼らは毎日同じ席に座ること、同じ席にこだわることによって「同じ車窓からの風景」にこだわり、パニックに陥らないよう、無意識のうちに守りに入っているのです。
私などは子どもの時から「席替え」が本当に苦手でした。自分の席からの景色が少しでも変化するだけでたちどころにそわそわと落ち着かなくなってしまうのです。
社会人になってからは、例えばオフィスの模様替えもとても苦痛でした。或いは移動や配置換えによって、自分の前の席にこれまでと違う人が座っただけで、もう本当につらくてダメでした。その「人そのもの」が嫌いだとか苦手だというよりも、今までとは「見えているものが異なるから」こそ落ち着かなくなってしまうのです。
この微妙な感覚はなかなか健康な方には理解してはもらえないため、今も私のなかで大きな課題になっています。
発達障害をお持ちの子どもさんが乗り物内でパニックを起こすことを減らす方法があるとすれば親御さんには相当なご負担かとは思いますが、可能な限り時間の余裕をみた通学や通園をするしかありません。そうすれば子どもは安心して、乗車のたびに同じ席を確保することもでき得るでしょう。また、現状のラッシュアワーのぎゅう詰めを回避することによって、子どもの心の負担も自ずと減ることでしょう。
同様に、何事も反復練習かとも思います。彼らにとっては不安で堪らず、パニックを起こしかねないようなシチュエーションであっても、何回も繰り返して練習すれば、少しずつ慣れて克服できる部分もあります。これは先に挙げた偏食の克服と似通ったイメージも持っています。
発達障害はまだ社会一般の理解を得られにくい点が多いのが実情です。すぐにパニックを起こす子どもを連れての公共交通機関利用は、子ども本人のみならず、親御さんにとってもまた世間の冷たい視線に晒される苦しみと背中合わせかと思います。しかしながら、子どもの障害の有無とは関係なく、ひどい言葉をぶつける人はどのような場面でも一定数存在するようにも思います。
お母さんやお父さんが気持ち的に委縮すればするほど、子ども自身の自己評価も低くなり、二次障害を起こす原因にも繋がりかねません。
世の中は決していい人ばかりではありませんが、悪い人間ばかりでもないと開き直っていただき、どうかあるがままの姿の我が子とバスにでも電車にでもご乗車ください。あくまで障害を持つ我が子が他人に迷惑を掛けた時点で、相手に適切な対処をすればいいのであって、最初からトラブルを想定して恐れることはないのだと、私は障害当事者として考えています。
障害当事者として私が心から願い続けていること
もしも、一生涯を通じて健常者たちから罵られる機会を避けられるのならそうしたいというのが当事者としての偽らざる本音です。
しかし、罵られることを恐れたままであれば、いつまでも社会から「障害を持つ我が子」の現実を知ってもらえる機会は訪れないのではないかとも思います。
ハンディキャップを背負いつつ生きていく人生を理解されないことこそ、本当は障害当事者にとっても、そして社会にとっても、お互いに成長や成熟を望めないまま不幸な形が続くだけなのではないかと考えてしまいます。
もうすぐ東京オリンピックに合わせてパラリンピックも催されます。しかし、そんな東京にさほど遠くない首都圏の一部の地域において、車椅子ユーザーでもある私自身は未だに、バスの乗車拒否の憂き目に遭うこともしばしばです。
それでも仕事の打ち合わせなどで急いでいれば、万一の場合も自己責任として介助者もなしに車椅子ごとバスに乗り込みます。しかし、遊びの時などはラッシュの時間帯を極力避けるなどの配慮は当然怠ってはいません。
そのようにして社会の壁は破っていくしかないだろうと、障害当事者のひとりとして私は真正面から受け止めています。
発達障害児者の心の内側、感覚的な世界観というのは、なかなか健常者といわれる皆さんには理解しがたい部分も多いことだろうという点は、私も慮るべきところです。
ただし、例え理解できない部分が大きいとしても健常者にはわかりかねる部分、問題行動としか受け止められないようような点についても、発達障害児者の行動には必ず何かしらの意味が隠されていて、ただ障害ゆえに自身の行動の意味を説明できない場合も多いのだという部分だけは、健常者の皆さんにも知識としてどこかに留めていただければ幸いに思います。
[参考記事]
「発達障害の感覚過敏の実際と克服するための工夫」