この記事は前田穂花さんに書いていただきました。
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車椅子ユーザーで発達障害の当事者、プロライターの前田穂花です。
先日、私のライティングのためのネタ帳に「子どもの時の私」と銘打った雑記が見つかりました。比較的最近まとめたものですが、残念ながら幼児期以降のものがありません。《学童期》とタイトルはあるのですが、どうもパソコンのドキュメントにきちんと保存されていなかったようです。
とにかく、発達障害児とされた幼い頃の私を考えるうえでは面白い資料だな、と個人的に感じたので、ここで紹介させていただくこととします。
*なお、実際に残っていた私自身の手による覚え書きのメモをそのまま転記いたします。
《~幼児期》とにかく「我儘で育てにくい」と言われ続ける毎日
・何しろこだわりが酷かった。
例としてはクレヨンや絵の具、色鉛筆の並べ方に対してマイルールがあって、それが乱されればキレた(というか…混乱してパニックに陥った)。
・こだわりが酷いが故に偏食がものすごかった。
成長に併せてその具体的内容は変遷をみせたが、以前はとにかく食べられるものが本当に三種類くらいしかなかった。
・好き嫌いをしているというよりは、ある食べものに一旦ハマったら、それひとつだけにめちゃくちゃこだわってしまうので、他のものが眼中に入らなかったとしかいえない。
まあ、養育者にはただの好き嫌いが多過ぎる我儘な育てにくい子、としか映らなかったようだ。
あくまでもこだわりからの偏食だったので、成人したのち、専門家による認知行動療法を受けてからは、季節的なもので左右されるアレルギーの問題を除けば食べられないものというのは一つもなくなった。
・読み言葉、書き言葉は理解できても、話し言葉は殆んど理解できなかった。従って、相手と会話しようにもほぼ成り立たなかった。大人になった現在も、相手とうまく会話を展開するのは本当に難しいと常々思う。
・暗記力だけは抜群だった。
例えば大人から絵本を見せてもらうと、一字一句間違いなく暗記してそらんじていた。因みに二歳半で最初にそらんじた言葉は「主は我が牧者なり、我乏しきことあらじ(旧約聖書・詩篇第23編一節)」←文語体である点がポイント。
だから、一見知能は高そうに見えなくもなかったが、決して内容そのものを理解していたわけではない。
・前項に付随するけれども、絵本を読み聞かせられても内容は殆んど頭に入っては来なかった。
なぜかというと、私にとって耳から入る絵本の内容は、話し言葉を理解しろといわれるのと同等だったから。字を見るから暗記できるのです。もっと言い換えるなら、内容を暗記するというよりは、そこに載っている字や図形の形をそのまま覚える…といえば近いかな。
・多動だった。全くといっていいくらいじっと椅子に座っていられなかった。結果、年中・年長共に幼稚園も保育園も受入先が見つからなかった。
・できることとできないこと、興味あることとないことへの取り組み方の落差が著しく大きく、いつも我儘だといわれていた。
※今…思えば
我儘な子=自分はダメな子、というセルフイメージが染みついて、自己肯定感が低下し始めたのはこの辺りからかもしれない。
《学童期》発達のいびつさがさらに目立ち出し、劣等感と孤独とを憶え始める
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覚え書きはここまでで終わっていて、残念ながら肝心の学童期以降のことが残っていないので、この先は今一度記憶を思い起こして以下に挙げていきたいと思います。
現在の私は自閉症スペクトラムのなかでも「アスペルガー症候群」との診断を受けています。しかしながら、自身の行動特性を鑑みると、私にはどうもADHDやLD(学習障害)の症状も表出しているのかも知れません。
~就学前検診で「就学免除」判定を受けた私の学んだ場~
私が小学校に入学する昭和50年頃はまだ「就学猶予(免除)」制度が厳格に運用されていました。
現在でも「就学猶予」を本人(正確には保護者)の希望によって意図的に利用する場合は皆無ではありませんが、表向きには現代の日本において、全ての子どもはどのような重い障害を負っていてもそれぞれの特性に応じた義務教育が保障される、と謳われてはいます。
しかし、昭和54年に「障害児も教育の権利が保障される」と法で定められる以前は身体に障害を持つ子、知的な発達に遅れが認められる子に対しては義務教育が「免除」されていました。特別支援教育を受けることも含めて、障害児が小学校に入学するというのは、まさしく高い壁のようなものでした。当時「六歳の春を泣かせるな」という「親の会」の有名なスローガンがあったほど、かつて障害児の就学は非常に困難だったのです。
「六歳児検診」の知能検査に見事“引っかかってしまった”私は、当然の流れで「就学免除」判定が教育委員会からなされましたが、当時私を養育していた伯母が地元の役所などに足繁く交渉した結果、私は今でいう「特別支援学級」当時の言葉で「特殊学級」への入学となりました。
年の離れた大学1年生の姉と出向いた入学式の日、紺色のワンピースに身を包んだ私は、教室で早々にパニック。それまでまともに幼児教育を保障された経験がなかった六歳の私にとって、初めての「集団」参加は恐怖、というありきたりな表現ではお伝えできないほどに強烈な場所でしかなかったのです。
結局、私がそれでもきちんと教室に入れるようになったのは二学期もだいぶん寒さが厳しくなった頃でした。
~複式学級での学び~
「複式学級」と表現されていた私のクラスには、今の感覚では疑問に思えるであろうほど、いろんな子どもが学年を超越して在籍していました。
殆んどは知的な障害を持つ子でしたが、なかにはポリオが原因だったのか、脚に補装具をつけている子、激しいやけどの跡を持つ女の子、耳が不自由で手話でしか意思伝達のできない男の子もいました。
それらの子どもを、障害児教育を専門に学んだわけではない担任の先生がひとりで指導されるわけで、現在の常識で捉えれば決してひとりひとりの特性にあった教育が保障されたわけではなかったのでしょうが、その「複式学級」での学びは、ある意味社会の多様性を言葉ではなく体験を通じて私にインプリンティングさせていきました。
いろんな人がいるんだなあということを肌感覚で知ったのは、その後私の自閉的なこだわりを緩和させるきっかけに繋がり、現在の自立生活の基礎となりました。
耳の不自由な一学年年上の彼とは、次第に手話でコミュニケートできるようになりました。私自身当時は自発的な言葉を持たない子どもだったので、手話でのコミュニケーションは感覚的に気楽でした。彼のおかげなのでしょうか、私は十八歳で全国手話検定試験(旧課程)2級に合格しています。
~ノートからはみ出て机一面真っ黒になるラクガキ~
しかし、教室で過ごす日常は本当に退屈で、小学生の私は授業中に「暇つぶし」によくノートに絵を描いて遊んでいました。
はじめこそノートの余白にラクガキしているのですが、次第にノートの授業内容を書いた部分にまでラクガキは攻め込み、やがてノートを飛び出して机一杯に自分の想いを描く私。
普通の感覚であれば、例えばノートの隅にパラパラ漫画を描いて遊ぶ…というところがオーソドックスなラクガキだとされますが、私は余白にラクガキしているつもりでも、空間に対しての感覚が怪しいために、ノートの余白と机との空間把握が出来なかったのです。
2Bの鉛筆で机全面に描かれたラクガキで、ノートと机が真っ黒になった辺りでちょうど授業終了のチャイム。保護者である伯母はしばしば担任に呼び出されて注意され、その事実を激しい言葉で私にぶつけるのですが、なぜ伯母が烈火のごとく怒るのか理由自体理解できない私は、ただ固まって「災難」が終わるのを待つしかありませんでした。
結果、伯母には「反省を知らない不真面目な子」と怒鳴られ、終業式の日に受け取る通知表の担任からの所見欄には「注意力散漫、落ち着きのない子ども」だと毎回記載されている私でした。
~今でも横書きが完全にマスターできていない私の障害~
空間が把握できない私は最近まで横書きのテキストを読んだり、横書きで文字を書くのがとても不得手でした。
小学校5年生の時に養護学校(現在の特別支援学校)の先生がサポートについて普通学級へ転籍、暗記が得意な私は友達はできなくてもお勉強はものすごく得意で成績は常に上位を保っていました。
ところが、小学校の教科書は縦書きなので、ひと目見れば一字一句暗記できたのに、中学校に上がって以降は教科書が横書きなせいで、私には読めなくて暗記できず、成績がガタ落ちしてしまった記憶もあります。
ピアノを弾くのが子どもの時から大好きでしたが、音譜は理解出来ても、楽譜は横書きであるために理解できず、それでピアノの練習は先生の模範演奏を耳コピ、がお約束でした。
横書きをマスターしたきっかけはExcelを覚えたかったことに始まります。それまではWordを縦書きのフォーマットで使用していました。必死で努力して苦手感を克服し、五十歳を控えた今の私は、取り敢えず横書きも読み書きできますが、縦書きであればまるでお手本みたいな字を書けるのに、横書きになった途端、たちまちミミズが這ったような字しか書けません。空間が掴めていないのか妙に右に傾いたり、字と字との感覚がバランスが取れていないがために、まるで中学生男子の粗雑なノートみたいに汚くなってしまいます。
~黒柳徹子さんからいただいた「生きる自信」~
そんな私ですが四十歳を過ぎた頃、自身の物書きの仕事の関係で、女優の黒柳徹子さんとご一緒し、お話を伺う機会を得ました。
社会現象にもなった「窓ぎわのトットちゃん」でも、彼女の子ども時代が非常にリアルに描かれているのでご存知の方も多いと思いますが、黒柳さんはご自身の学習障害をカミングアウトされておられます。
学習障害の方に見られる症状、というか、私も含め皆さんがよく口にする「苦手」なものの代表的なものに「空間の把握」があります。黒柳さんも私のように横書きのテキストがとても苦手でいらっしゃるそうで、八十歳を過ぎた現在も直筆は今でも縦書き中心だとのことでした。
彼女がレギュラー出演されている「世界・ふしぎ発見!」で、黒柳さんが必ずお一人だけ縦書きで回答されておられるのも、空間把握に困難があり、横書きを苦手とされていることに理由がおありなんだとか。
しかし、その黒柳さんが同じ困難を抱える私にこうおっしゃいました。
「でも私、もうすぐ八十歳(当時)になるのよ、全然大丈夫。生きられるから心配しなくていいわよ」
――ああ、生きられるんだな。同じハンディを抱えて過ごされてきた人生の大先輩からのお言葉に、私はそれこそ一瞬にして心を絆されてしまいました。
発達障害というハンディキャップは、やはり人生の大きな苦しみであることに間違いはありません。それでも生きられるんだ。黒柳徹子さんの一言に、私は本当に大切なことを学ばせていただきました。
「注意力散漫、協調性皆無」今でも心に突き刺さる通知表上の所見~
話を戻します。普通学級に転籍しても。私はクラスメートとは仲よくなれるどころか、まさにイジメのターゲットでしかありませんでした。一生懸命やっているつもりであっても、なぜか他の同級生のようにはうまく行動できない私。場の空気も読めないので、相手の反応を恐れてとにかくドキドキ、びくびくとクラスの隅っこに怯えつつ過ごす学校生活でした。
「複式学級」の頃にも毎回私の通知表には注意力散漫、そう記載されましたが、普通学級に移ってから以降は、さらに「協調性に欠けて我儘」と続きが書かれてばかりでした。
通知表に書かれた「注意力散漫、協調性がなく我儘」という先生からのルーチンワークのような文言は「どうせ私なんて何をやってもダメなんだ」という形で、私自身の自己評価を著しく低下させる形、果てには自己否定の念として現在も私の心に棲みつき、染みついています。
*記事内に挙げたこれらの症状が子どもさんに表出しているからといって、決して自閉症だという診断が確定するわけではありません。児童・成人に関わらず、自閉症の定義及び診断については専門家でも微妙に意見が分かれる部分であり、心配な方は(成人であっても)児童精神科を併設している医療機関その他、専門家にまずはご相談ください。