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発達障害の大人は自分自身を躾(療育)すべき。薬物治療はダメ

この記事は50代の女性に書いていただきました。

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私は今年五十歳を迎えた発達障害当事者の女性です。発達障害だけではなく軽度知的障害も併せ持っているため、障害等級で最重度と判定され、精神障害者保健福祉手帳1級を所持しています。ですが就労して完全自立を果たし、現状は一切の福祉サービスを利用することなく都内で一人暮らししています。

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発達障害を薬物で治療することに懐疑的な当事者の私

かつて発達障害に対する「治療」といえば、専ら「健常者と呼ばれる人たちの社会」に迎合する力を養う訓練(療育)を指していました。

しかし、2007年暮れに発達障害の一種・ADHAの治療薬としてコンサータ、2009年6月にはストラテラが発売されました。引き続き、昨年5月には一日一回の服用でも効果があるとされるインチュニブ錠が発売されました。現在の社会においては、生まれつきの「認知能力の歪み」とされた発達障害が「お薬で治療できる病気」へとみなされつつあります。

しかし、私は自身の体験からこう痛感しています。発達障害児者にとって本当に必要なものは、薬物による「治療」ではなく、保護者や周囲の愛情に裏付けられた「療育を受ける権利」を、本人が完全に身に着けられるまで長期間に亘り保障されることではないでしょうか。

当事者としての立場から、私は発達障害を薬で治療することに対して懐疑的です。そう私が考えるに至った経緯について、自身の経験をなるべく時系列に沿ってお話しできればと思っています。

愛情不足は発達障害の原因ではない

昭和50年代に自閉症(情緒障害)児と診断された私は、子どもの時から「躾が悪い」と、とにかく言われまくってきました。家庭の事情で児童福祉施設、里親や養親による養育を経験した経緯から、私は「愛情が足りないせいで自閉症になった」と言われがちでした。

その頃は「発達障害」と「躾の問題」をごちゃまぜに考える人が今以上に多く、障害児教育の専門家ですらも「家庭に恵まれない子どもであるがゆえに発達障害児になるのだ」と主張していたのです。

ですが自らの成育歴や生活歴を鑑みれば、自閉的な障害自体は生まれつきの問題ではあるものの、発達障害ゆえに子どもらしい健康さに欠けたせいで、大人から可愛がられた経験が殆んどないように感じます。大人からの適切な無条件の愛情を受けられなかったせいで、私はのちの人間関係の構築に問題をきたし、他者との適切な距離感が把握できないトラブルが絶えませんでした。

つまり、愛情が足りないから発達障害を起こすわけでは絶対にないにせよ、養育者が発達障害児にどのようなスタンスで向き合うのかによって、成人後の本人の姿や生きるための基本的な力の養われ方は相当に変化するのではないかと私は考えています。

反応のない子供でもセンシティブに大人の言動を受け止める

実際問題として、発達障害児者にとって相手の気持ちを察することが非常に苦手だという事実は否めないでしょう。しかし、相手が「自分を本当に大切に思ってくれているか」という点についてだけは、私たち発達障害当事者は健常者の皆さんが考えていらっしゃる以上に、センシティブに受け止めているものです。

発達障害児の躾が非常に困難である現実は、子どものない私も五十歳にして(自身も当事者であるがゆえに)切実なテーマとして実感させられています。だからこそ、障害のために反応がイマイチであろうとも、養育者の皆さんには子どもを繰り返し諭し続けていただきたいと願うのです。

例えば、発達障害のある子にとって、仮にお母さんが自分を叱る意味そのものは理解できないにせよ「お母さんが僕のために一生懸命になっている」ということだけは、子ども自身の奥深い部分にしっかりインプットされ続けるものです。その積み重ねがその子の心を豊かにさせるのです。

自身が発達障害者であることから、私はこれまでに多くの同じ障害を持つ人とお会いしました。私がさまざまな当事者から受けた印象として、養育者が真摯に向き合ってくれた記憶こそが、発達障害を持つ子に愛や基本的な信頼を理解させ、本人が成長するにつれて、それらが物事の善悪を判断する力へと繋がっていく気がします。

適切な療育を得られなかったために生きづらい

発達障害当事者の「本当の気持ち」はなかなか一般の方にはおわかりにならないと思います。

私たち発達障害児者は「躾」と称して、虐待としか思えないようなひどい仕打ちを受けてしまいがちです。あるいは「どうせ重い障害があるんだから躾けたところで大して意味ないよね」と放任されて我儘し放題のまま成人するケースも多く見られます。私たち発達障害当事者は定型発達の人に比べて、大人から適切な躾をなされ、適切な対応をされる機会が極めて少ないと感じています。

私自身、毒親育ちの虐待サバイバーです。親は社会的規範や善悪を基準にしているというより、自分たち大人に都合のいい行動を取れるかどうかでしか私を評価しませんでした。そこそこ勉強が得意で、女の子としての見た目も愛らしかった私は、常に親の虚栄心を満たすための道具でしかありませんでした。親にとっての「望ましい子ども」である時にしか、私は愛してはもらえませんでした。

高校卒業後、親元から家出することによって、私はどうにか物理的な自由だけは得ました。しかし、子ども時代に無条件の愛を得られず、適切な療育が保障されないまま成人したがために、どのような場面であっても私はとにかく生きづらさだけを感じ、五十歳の現在までも悩み苦しみ続けている始末です。

発達障害者の落ち着きのなさは「こだわり」が原因だと思う私

自身の経験から、発達障害児者特有の「落ち着きのなさ」は、養育者からの躾が足りないというよりもむしろ、発達障害児者特有の「こだわり」が強すぎる点に端を発しているように感じています。

言い方を変えるならば、発達障害児の躾を難しくさせる原因のひとつに、障害特性としての「こだわりの強さ」が挙げられるでしょう。こだわりがあるゆえに、それが達成できないと落ち着かなくなるという図式です。

例えば幼い頃の私は「発達障害児あるある」で、バス車内の同じ席に固執し、そこに座れなければ必ずといっていいほどギャン泣きしてはパニックを起こしていました。私の中には「どうしても同じ席に座りたい」私なりの理由があったのです。

視覚によって過剰な刺激を受けがちな発達障害児の私には、目に映るものに対し強いこだわりがありました。もう少しわかるように説明するなら、バスの車窓から毎日同じ風景が見えていないと、幼少期の私はものすごく不安に陥って「真の意味でのパニック」を起こしそうな心持になったのです(環境の変化に弱いと言えばいいでしょうか)。

バス車内で(自分でもマズいと実感するほどの)パニックを起こさないために、私は毎日同じ風景を眺める必要がありました。言い換えるなら「自分でもマズいと認識できるほどのパニックを最小限に抑えるために」私には同じ席に座る必要があったのです。「バスの定位置に座り、同じ風景を見る」というこだわりが達成できないと落ち着かなくなるということです。

自分を育て直す

複雑な成育歴によって、基本的な躾を保障される機会を得られなかった私は、子どもの時から見受けられた落ち着きのなさによって、いかにも躾がなされていない印象を周囲にさらに強く与えがちでした。

しかし、万一幼少期に適切な躾を受けられなかったとしても、自ら目標を設定して「自分育て」をすることは可能です。思春期を過ぎて、多少は自己を客観的に見られるようになった頃、私は自分で自分を苦しめる結果に繋がる「こだわり」をどうにか捨てるためのイメージトレーニングを始めました。

私の落ち着きのなさは、発達障害特有のこだわりの強さに端を発するものでしたが、成人してからも必要な躾すらなされていないように見える自分は、それだけでいろんな意味で損をしてしまいがちだという事実に気づきました。そこで、私は自分のなかの強いこだわりを減らす対策をすることにしました。

発達障害を有する自分自身に対する躾の実例1

強いこだわりを修復していく実例として、以降私自身の経験を挙げます。

強すぎて自分でもつらかったこだわりの一つに、私には「5の倍数の時間にしか電話し(でき)ない」というものがありました。一般の方にはなかなかおわかりにならないかも知れませんが、強すぎるこだわりのせいで、若い頃の私は5分、10分、15分…ジャストにしか電話がかけられなかったのです。

(自分ではどうしようもない)こだわりによって職場での電話応対に支障が出たことは言うまでもありません。プライベートでも、街中で友人と待ち合わせする際、予定時間に約束していた場所まで間に合わない、外出中に急用ができた等の場合にも、こだわりのために相手に対し必要な電話連絡すらできません。この「5の倍数の時間にしか電話ができない」というこだわりは(私に無用の)人間関係のもつれの原因に繋がりがちでした。

電話を掛けた時間が気にならないようにするための対策として、私は「通話履歴を自分ではわからなくしてしまうこと」を思い付きました。通話履歴の時間を見れば見るほど、こだわりも強くなっていくからです。私はさっそく携帯電話の機種変更をしました。新しい携帯を購入の際、ショップで通話履歴が待受画面に表示されない設定にして頂くことで、自分でも電話をかけた時間がひと目ではわからないように工夫しました。

こだわりを払拭するまでに一年以上の時間を要したものの、電話はいつでも掛けられるような習慣づけが叶いました。さらに三年以上の時間がかかったものの、やはり5の倍数の時間にしか送れなかったメールも、現在は必要に応じていつでも送信できるようになっています。

発達障害を有する自分自身に対する躾の実例2

先に挙げた「バスの定位置の席へのこだわり」について、改善に向け私なりに意識した取り組みは「自分にはバス車内での席に対して他人とは異なるレベルでの強いこだわりがある」と認める練習でした。(時間こそかかりましたが)バスで同じ席に座らないと落ち着かないことについては、自分のなかにそのようなこだわりやすい特性があるのだという点を意識しただけでもかなり改善しました。

その後、さらに次の策を実践しました。①バス車内で眠るようにする②スピードラーニングを聴いて英語のヒアリングの練習時間に充てる③携帯やタブレットで誰かにメールしてやり過ごす…などを試しました。これらの策でかなり改善しました。

ステップファミリーのパパが自身と向き合ってくれた経験

しかし、不穏になりやすい傾向を減らすために画期的かつ一番効果が高かったものは、幼少期や思春期に家庭に恵まれなかった私が、成人後に出会ったステップファミリーの「パパ」やパパの家族と過ごす経験でした。

パパと暮らした経験を通じて、発達障害児に対する躾は、子どもに対する無条件の愛が前提であり、生活の質までも下げかねないほどの彼らの性質を養育者が正しく理解することがポイントなのではないのかと思います。

「パパ」と知り合った頃の私は、年甲斐もなく「パパ、買い物に行こう」「お茶に行こう」「今日は私がごはんを奢るね」と、ひたすら父娘ごっこに勤しみました。

毒親育ちの私にとって、親子ゲンカというものすら、経験する機会に恵まれないままでした。しかし、パパと知り合ってからの私は事ある毎に本気で父娘喧嘩を繰り返していました。

家族というのは「サザエさん一家」みたいなキレイなものだと本気で信じていた私は、理想と現実のギャップにしょっちゅうブチキレました。さんざん衝突した先に、お互い納得がいくまで話し合うことを通じてパパとの関係を修復する…作業を何回となく繰り返していました。

ところが、パパとケンカしてしまうたびに、私はなぜか精神的に安定することができました。恐らくパパとケンカした体験そのものより、ケンカの後パパが(多分実の親子ではないからこそできたのだと思いますが)私に対して非を認めるべきところは非を認め、きちんと謝ってくれたり、その後徹底的に私と善後策を話し合う姿勢を見せてくれたことが大きかったのだと思います。

結果として、私はメンタル的にぐっと落ち着き、不穏に陥る場面が激減しました。私に真正面から向き合ってくれたパパには心から感謝しています。

パパと一緒に取り組んだ「不穏にならずにバスに乗る」練習

今はパパの近くに居を構えつつも、別居して自活を果たしている私ですが、パパと一緒に暮らしていた間に障害者雇用制度を利用して、あるIT関連会社への就職を果たしました。

会社への通勤はバスと電車を乗り継ぐ必要がありました。私が通勤の最中に不穏になってパニックを起こす虞がなくなるまでは、別の職場に通勤するパパが駅まで私と一緒にバスに乗る対応をしていました。

最初は行きだけでなく、帰りも駅前の喫茶店でパパと待ち合わせて、一緒に自宅までバスに乗って帰宅する必要がありましたが、一か月後にはパパの同伴が行きのみ、つまり出勤のラッシュアワーだけで大丈夫な状態にまで進歩しました。

「助けてカード」がくれた自信や他者への信頼

最終的には4ヶ月を要しましたが、私は自分ひとりでバスと電車を乗り継いで会社まで通勤できるようになりました。

私がパパと日々取り組んでいる「練習」をお話したところ、職場の直属の上司もお手製の「助けてカード」なるものを作成してくださいました。

上司お手製の「助けてカード」には、勤務先の電話番号やパパの携帯番号のほか、私の血液型や履往症、緊急時に私がパニックに陥った際に第三者にお願いしたい対応の詳細。さらには自閉的な傾向を持つ私が取りがちな行動パターン、ニックネームや普段の私の職場での呼び名など、とにかく外で何か予想外の出来事が起こった場合に、障害を持つ私がひとりであっても不穏に陥らないためのあれこれが書き込んでありました。私の毎日の通勤経路なども記載されていて「何かあったら職場に連絡ください」というメッセージも書かれていました

今思えば、上司が作成した「助けてカード」は個人情報上、かなり問題があったのかも知れません。しかし、障害のある私に対し、そこまで直属の上司が真剣に向き合ってくださっていることや、上司が一生懸命にカードを作成してくださった事実=「私は職場でそれなりに受け容れられている」のだという自負みたいなものが、本来生真面目な性格傾向を持つ私のリボーンに大きく影響を与えた点は特記すべき点かと思います。

パパや職場の上司から「大切にされている」実感は、私を些細なことではパニックにさせない自負や自信に繋がりました。それを裏付けるように、この頃から私は精神科病院へ繰り返し入院することもなくなりました。

自身が精神的安定を得るまでの経緯や経験を通じて、私は発達障害児者に対して「障害があるからどうせ躾けても意味がないよね」と養育者が見限ることなく、その子ども一人ひとりに対してわかるように噛み砕いた丁寧な躾を繰り返し、その子が養育者から丁寧に扱われることによって「自分は大切にされているのだ」という実感を得ることこそが大切なのだと考えるようになりました。

周囲に大切にされることを通して自信を持たせてもらうことこそ、不穏からパニックを起こしてしまいがちな障害当事者の心を落ち着かせ、問題行動を減らす結果へと結びつくのだという持論を私は得ました。

発達障害当事者にとってターニングポイントは四十歳

これらは私が四十代の頃の話です。成人し四十歳を過ぎてしまっても、発達障害に対しての療育(訓練)は一定の効果が見込まれます。精神科への入退院を三十回以上も繰り返した中にあって、私は経験的に発達障害児者にとってのターニングポイントは四十歳だと感じています。

加齢によって行動が緩慢になりがちな分、感情の起伏も平坦化するのでしょうか。自身も病院などで知り合ったほかの発達障害者当事者も、四十歳を機に発達障害や二次障害の程度は関係なく、みんなそれなりに落ち着いた印象です。「時間の経過とともに障害も安定するもんだ、余り心配は要らない」と当事者目線から私は実感しています。

現在は発達障害を薬で治療しようという動きが盛んで、かつては子どもだけしか処方されなかった薬も法律の緩和によって大人にも出そうとする治療者が多くなり、個人的には怖い流れだと危惧しています。発達障害の「障害特有の行動パターン」は躾や薬で改善させるというより、本人の(他者との違いに対する)気付きによる改善のほうが現実的だと思うのですが…。

将来に向けて備えたい「生きるための力」

発達障害から生じる問題行動に対しては、そのじつ時間が解決する点もかなり大きいと思います。私の実感として、四十歳になれば誰しも「それなりに」落ち着くので心配要らない、悲観するには至らないと考えるのです。

もし将来に向けて当事者本人や家族が何か備えておくとしたら、ご本人の四十歳以降のライフ(セカンドキャリア)プランを整えておくのはいかがでしょうか。

ちょうどこの頃、保護者たる親が年老いて本人を支えられなくなる、あるいは死別し本人だけの生活となるケースも多いように思います。だからこそ、福祉の制度でも何でも活用し、親亡きのちも本人が自分らしく生き抜くための力を培う必要を感じます。

基本的な家事や自炊、役所への申請や銀行など金融機関の手続き…ひとりで生きるためにはかなりマルチタスクなスキルを要するものでしょう。将来の目標は必ずしも職を得て生産的な活動をするという部分に留まらず、日常生活をきちんと送るための些細な作業が、しかしきちんとでき得る部分も大きいかと思います。

昨今、発達障害「治療」の主流になりつつある薬物治療以上に、養育者による心ある躾を保障されることこそが、本当は発達障害児者にとっての「希望の感じられる未来」に大きな影響をもたらすのではないでしょうか。

[参考記事]
「療育の事例①気持ち(感情)をコントロールする練習」

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