この記事は20代の女性に書いていただきました。
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成人後の判明
私が自身の発達障害の特性を認識できたのは大学での勉強について行けなくなったことがきっかけでした。高校の卒業後、理系の大学に進学しました。通常、理系の大学の勉強の基本は高校生で勉強した内容を理解していればついて行けます。しかし私は基礎から躓き、一年生の基礎教養で単位を落としました。
大学職員の方々は私がサボったからだと決めつけ、私を追い詰めました。担当教官は私の勉強が悪いと指導。ですが、いくら時間をかけても、何も理解できませんでした。大学3年で、最終学年での留年が決定した時も、私をアホだと同級生はバカにしていました。私を理解してくれる人はおらず、大学ではいつも孤立していました。
なぜ私だけが留年するのだと自分にも大学にも怒りが湧き上がり、私は感情を爆発させ、自分の家の洗面所をめちゃめちゃに荒らしました。それから数週間後のことです。大学からの通知で、私の成績を知った兄は私を激しく責めたてました。兄は私に友がいないことまで、責めました。「友達がいないからお前はダメなのだ。」と言われた時、私の中の何かが壊れて、粉々に砕け散りました(友達が作れなのも発達障害が少なからず関わっているでしょう)。
その日から大学には行かなくなりました。何をせずに自宅にこもり続けました。自宅に閉じこもっている間、大学からはなんども連絡がありました。担当教官からは大学に戻ってくることを勧められましたが、私は電話に出ることすら出来ず、ただ「話したくないから私に取りつがないで」と母親に頼みました。
家族は、私を責めたて、大学に行けと叱りました。それが全く効かないと知ると、大学を形だけでも出た方が良いとなだめました。私が聞く耳を持たないと分かると、私の頑なな態度に驚くばかりでした。兄との諍い(いさかい)から、この大学への拒否に至るまで、母はただ うろたえていました。結局、大学を中退しましたが、完全に自分への自信を失いました。この時はまだ診断を受けていませんが、今から思えば発達障害による二次障害が始まったのがこの頃です。
家族との不和に耐えられず、働きに出ました。接客業も経験しました。ですが同僚とは仲良くなることもできず、私は疎外感や孤独感から仕事を続けていくことができなくなりました。特に目上の女性に注意や叱責を受けると、頭にきてしまい、数週間も経たずに辞職してしまうことを繰り返しています。
これらの体験は心の状態が悪くなったからだと考え、精神科に通うことにしました。ですが、精神薬を使っても何も変わることがありませんでした。単純な精神的な病気ではないと思い、一人で原因を探し始めました。
発達障害の本との出会い
私が自分自身を普通の人とは違うことを分かりかけていた頃、インターネットで見つけた言葉に注目しました。その言葉は「大人の発達障害」です。早速、そのサイトを見て見ました。そこには私が知りたかったことの概要が載っていました。そこで市立図書館から発達障害の本を少しずつ借りて読みました。成人後の大人が働き始めてから発達障害による二次障害を発症する場合もある事を知りました。私のように発達障害なのに周りの理解がなく責められたりすると、うつ病や不安障害のような二次的な症状が現れると書いてありました。
その後、病院で問診や検査をしてもらったところ、やはり発達障害(自閉症スペクトラム障害)の診断を受けました。発達障害の中でも特に自閉症スペクトラム障害はコミュニケーションに問題があることが多く、私もその性質が強く表れています。友達ができず、いつも一人です。
発達障害について、親が早くに発見してさえくれていれば私は二次障害でこれほどまでに苦しんだのだろうかと今でも納得できないです。親は私を努力ができない馬鹿な学生だと決めつけ、ただうろたえるばかりでした。協力するどころか、二次障害の悪化に加担さえしています。精神病ではないのかもしれないと思った時に相談できる人がいれば状況も変わっていたでしょう。発達障害の一番の問題は、障害そのものよりも障害をも持つ人が相談できずに孤立するということです。私の家族のような対応が一番良くないケースです。
私の発達障害が改善できるものなのかはこれからの訓練によるものなのだと考えていますが、今は人との関わりを避けて、二次障害により傷ついた心の回復だけを考えています。そのため、現在、私は在宅の仕事をこなして、自分の精神が不安定にならないようにしています。伝達事項はメールやチャットを利用して相手の意見を聞いたり、自分の意見を伝えています。
この後、精神的に落ち着いたら、コミュニケーションの訓練(ソーシャルスキルトレーニング)をして、最低限の社会生活ができるくらいのレベルまでに持っていきたいと思っています。
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