30代男性に書いていただきました。
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私は24歳の時から9年間公務員としてある町の教育委員会に勤務をしていましたが、係長に昇格して2年後にうつ病を発症し、2ヶ月間の入院を余儀なくされました。そして、入院中にADHD(注意欠陥多動性障害)の診断を受け、入院する理由となったうつ病は、そのADHDの二次障害だと診断されたのです。
今考えると幼少期からその特性は現れていたのですが、私自身も家族も、全く障害を疑ったことはありませんでした。
幼少期からの特性
小学2年生の時に実家が改築され、それまで姉と一緒の部屋を使っていた私にも、6畳ほどの自分の部屋ができました。6畳ですから、ベッドと勉強机を置いてしまえばほとんどスペースは無いのですが、私は物を片付けることができなく、いつも物で溢れかえっている状態でした。まさしくADHDの特徴です。
また、特定の物事に強いこだわりがあるため、学校への通学路は必ず自分で決めた道順でなければ納得できず、例えば友達と寄り道をした後などは、一度学校に戻ってから自分で決めた道順で帰宅しなければなりませんでした。
また、筆記具にも強いこだわりがあり、ノートとペンの組み合わせは自分の法則に従ったものでなければならず、ノートとペンは何十種類も揃えなければなりませんでした。この辺はADHDというより、自閉症の子によくある性質です。
一番強い特性は、ADHDによる不注意と衝動性でした。不注意で言えば、自分のスケジュールを覚えることができなかったので、友達や先生との約束をすっぽかすことは日常茶飯事でした。特に進学のために自分で講習などのスケジュールを管理することが求められる高校生になると、途方に暮れることが多くなりました。しかしその時の担任の先生が親身に指導をしてくれ、この時からビジネス手帳をもって予定を管理する術を身につけていきました。
また、例えば衝動性で言えば、お年玉や月のお小遣いなどを計画的に使うことが苦手で、その日のうちに使い切ってしまうことが常でした。これは大学に進学し一人暮らしをするようになってからも改善されることがなく、アルバイトの給料日や仕送りの日には大半を使ってしまって、その後の生活に困ってしまうことは毎月のことでした。それでも、大学2年生の夏に今の妻と出逢って交際をはじめ、やがて同棲するようになると、お金の管理を彼女に任せることによって、何とか大学を卒業し、その後も大学院を修了することができたのです。
公務員としての仕事でうつ病を発症
大学院で教育学を学んだ私は、教育委員会に置かれる専門職としてある町に就職しました。学生時代に学んだことを直接活かせる仕事内容だったのと、上司に恵まれたこともあって、就職してしばらくは自分の仕事に集中できましたし、楽しく仕事をすることができていました。
しかし、31歳で係長に昇進し、自分にも部下が配置されるようになると、上司の指導と監督を受けて自分の仕事のことに集中していれば良い立場から、部下の仕事も管理しなければならなくなりました。また自分の係の予算の管理もしなければならなくなり、仕事が苦しくて仕方がなくなりました。
プライベートでは、衝動的にお金の計算もせずにすぐに使ってしまう私が、部下も含めて膨大な金額の予算を管理しなければならなくなって、頭の中は常に予算の管理で占められるようになり、またスケジュール管理も苦手だった私が、自分のスケジュールの管理に加え、部下のスケジュールも常に把握し、仕事の進み具合をチェックしなければならなくなったのです。
立場が上がるとそういうものだと思っていましたが、33歳の時に異動となって、町の教育のレベルを上げるために、様々なことを学校と調整することがメインの仕事となってから、徐々に仕事のスピードが落ちていき、重要な判断ができなくなりました。
そして、34歳になったばかりの昨年の11月中旬、コップの水が溢れてしまったように、全てのことが手につかなくなりました。生きることへの執着もなくなって、食べ物と飲み物を口に入れることもできなくなり、異変に気付いた妻が精神科の病院に連れて行ってくれ、即日保護入院となったのです。ADHDの二次障害が究極的な形で表れてしまいました。
入院から社会復帰、そして現在の生活
希死念慮(自殺願望)が強かった私は、入院してからも食事と水分を摂ることができず、さらに栄養補給のための点滴も自分で抜いてしまうということを繰り返しました。それでも医師や看護師の方々は粘り強く治療をしてくれ、2ヶ月半ほどで退院することができました。
その入院中に何度も行われた診察と、心理士による心理テストの結果、ADHDの確定とうつ病は二次障害であるという診断を受けました。そして、衝動性の強い私は、ストラテラという薬を服用するように勧められ、退院間近にその服用を始めました。1週間ほど経つと、自分の行動がどのような結果をもたらすのかを想像できるようになり、さらに服用を続けていくと、頭の中の霧が晴れていくような、そんな感覚になりました。
医師からはうつ病が完治するまでは重要な判断をすべきではないと言われたのですが、妻と相談して退職することを決め、大学生時代にアルバイトの1つとしていたライターとしての仕事を再び始め、さらに妻も働きに出てくれることになり、自分のペースで仕事をしていくことにしました。
今考えると、もっと早くADHDの特性に気付き、治療や服薬を行なっていれば、二次障害も現れることなく公務員としての仕事も上手くいっていたのかもしれません。確かに確定診断を受けた時はショックでしたが、医師や家族と相談しながら進めていく治療や服薬は、より人生を豊かに生きるための優れた方法だと思っています。
自分の特性に気付いた今、自分らしい人生を歩むため、障害による特性と上手く使いながらマイペースで仕事をしていこうと思っています。
※ADHDの薬を勧めているわけではありません。副作用が強い薬ですので、十分ご配慮の上、服用してください。
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