最重度の発達障害を負う私だからこそキラキラに生きる
私は五十歳の発達障害当事者の女性です。
障害判定的には最重度の精神障害者保健福祉手帳の1級を所持し、二次障害としての様々なメンタル的疾患を治療するために処方された薬の副作用で身体的な障害を負い、現在では常時車椅子での生活を強いられています。
それでも私は個人的な実感として、アラフィフの今が一番楽しく自分らしく生きられていると思っています。
たまたま私はライターとして健常者に伍して活躍する場が与えられているからこそ、幸せだと思える部分も否定はできないでしょう。
しかしながら、経済的な自立だけではなく、発達障害を負う自分自身の存在への受け止め方や、物事の考え方の癖を改めることによる生きづらさの軽減など、障害があっても自分らしい人生を実現させるポイントというのは必ずあるように私は考えています。
本日は障害があってもそれなりに楽しく生きられている私の、決してデメリットばかりではない発達障害の受容の仕方についてお話したいと思います。
アラフィフとなってもやりたいことを自由に楽しめるのは発達障害のおかげ
重度の発達障害者である私に対し、よくも悪くも周囲からの期待は低いようです。しかし大して期待されていないということは、即ち「五十歳という年齢」の呪縛からの解放だと私自身は捉えています。
現在は離婚し、ひとり暮らししているお気楽な立場だからこその私の感覚でしょうが、これから先の人生は私自身が本当にやってみたいこと、叶えたかった夢を実現させていくための時間だと受け止めるように心がけています。
こういった考えが、それまで自身を縛り付けていた「どうせ(発達障害のある)自分はダメな人間なんだ」という思い込みから私を脱却させてくれた事実は、別の見方をすれば、私自身が発達障害者であることと、私が五十歳になったということのコンボが「自身の発達障害」という一面に囚われ続けていた私の、心を自由に解き放ったまさにうれしい相乗効果でした。
精神医療の現場においては「四十歳になるとどの患者もそれなりに病状が落ち着く」といわれています。
それは私自身も自分の経験を通じて文字通り身を以て感じた事実です。
同時に、五十代に突入して自然に次第に考え方の癖が変わったというか、以前は私のなかで単にマイナス要素でしかなかった発達障害が、今は逆に私を自由に動かすためのツールみたいに思えてきたことは特記すべき点かと思っています。
発達障害という「葵の御紋」があるからこそ私は五十歳になってもコテコテのギャル服を纏い、シルバーにプリンの入ったアッシュカラーのウィッグを着けて外出できるのだと思います。
今さらながらバンドを組んでボーカルを担当して歌えるのも、国際展示場前駅辺りでコスプレしつつ(車椅子で)練り歩けることも、フリーライターという怪しい身分であっても「穂花ちゃん、よく頑張ってるわね」などと皆様が過大評価くださるのも…。
このやりたいことを片っ端からやれているどうしようもない自由な感じは全て、私が発達障害である事実を逆手にとって、自分らしく人生を楽しもうと(これまでの自分はダメなんだという)考え方を改めることに成功できたからです。
そもそもこの「多幸感」自体、発達障害者にみられる特有の気質ですが、意外と発達障害特有の多幸感をしかしどの当事者もうまく活かせてはいない現実があります。
私自身、発達障害を負って生まれた自分について、長い期間「ゴミ」のように受け止めていた時期がありました。
しかし、私の人生のターニングポイントとなり得るいろんな出来事が、絶妙なタイミングで重なったことをきっかけに、自分の生き方や物事の考え方もごろっと変化しました。
アラフィフの現在は、発達障害者の特徴である多幸感をうまく自身の日々に反映しつつ「私はやりたいことをやれる自分なんだ」と自分にいい暗示をかけて暮らしています。
発達障害者に対する各種の支援制度も次第に充実の方向へ
前出の発達障害者ゆえの楽しい感覚は、しかし単に私自身の個人的な経験に過ぎないのかも知れません。
しかしながら、発達障害というものが広く世間に知られてきたことに併せて、当事者に対し(決して完全とはいえないまでも)発達障害があることが原因の生きづらさをフォローするための各種支援制度は、軒並み充実の方向へ向かいつつあります。
現在の私自身、重度の発達障害を事由に障害年金や特別障害者手当を受給できています。
東京都在住ということで発達障害を理由に精神障害者保健福祉手帳1級を所持している私は、今年から(それまでも身体障害で制度の対象にはなっていましたが)通院の際、いわゆる「マル障(心身障害者医療費助成制度)」の受給者証を支給され、医療機関での医療保険分の窓口支払いが無料となりました。
入院加療の場合でも(収入に応じ自己負担分が発生しますが)この制度の適応になっています。
東京以外の自治体では「償還払い」扱いにはなりますが、多くの市町村において、精神1級の手帳を所持している人に対する同様の制度はあります。
医療費の減免だけではありません。無料パスの発行を受けて地下鉄など都営交通が無料になるほか、民営のバスも半額で乗車できるなど、交通運賃も割引適応になります(自治体により異なります)。
私は今働けているので直接は関係ありませんが、精神障害者手帳1級ないし2級であれば、月々受給できる生活保護費も障害者加算が認められています。
精神障害者手帳の取得に関しては「障害者」というスティグマで悩まされるなど、それなりのデメリットもありますが、単に経済的保障の面で裏付けが得られる部分だけでも「おいしい」とは言えるでしょう。
手帳の等級によって金額は変わりますがご本人若しくは本人を扶養されている方に対する所得税の減免、あるいはご家族がご本人の医療機関へデイケアなどの通所に際し車で送迎される場合(精神の手帳の等級が1級の方に限りますが)自動車所得税や自動車税、軽自動車税も免除になるなどの税制面の軽減措置も、制度を知ってうまく活用できればかなり違うかと思います。
(精神通院のための)自立支援医療制度を使って通院中の方は、この制度を使って精神障害者ホームヘルプサービスを受けられるなど、制度の活用法を余り知られてはいませんが、当事者の生活を支える様々な支援制度もあるにはあります。
さらに、お住まいの自治体によって差はありますが、就労支援や当事者のための「溜まり場」的な居場所作りなど、発達障害の存在が知られていくにつれて、公的な支援の上でもそれなりに当事者が生きやすくなるためのサービスが次第に整いつつあります。
これらのサービスをうまくあなたの毎日に取り入れることを通じて、例え発達障害があってもあなたらしい人生が保障されることを願っています。
三十三回に亘る精神科入院歴!私も過去には二次障害に苦しんでいた
五十歳の現在でこそ自分らしく生きられるようになった私ですが、かつては二次障害によるうつ状態やらパニック障害、解離性パーソナリティ障害や各種の適応障害に悩まされました。
私は十代の頃から四十代までの間に、実に三十三回もの精神科入退院歴を持っています。
若い時に「精神分裂病(今でいう統合失調症)」だと誤診された私は、過剰な向精神薬の投薬が原因で薬物性パーキンソンニズムを発症し、全身の筋肉が弛緩して歩行困難となった現在、車椅子での生活を余儀なくさせられています。
生きていく上において、つまり私はそれほどまで「発達障害を負う自分」を過小評価せざるを得なかったのです。
発達障害のために自閉的傾向が強かった幼少期の私は、養育者に虐待を繰り返され、学校では先生も加担しての凄惨ないじめを経験しました。
それらの暗い経験も発達障害を持つ私の心にいっそう深く影を落とし、自己否定に走らせ、二次障害としてのメンタル的な故障をさらに重症化させる一因となりました。
ここでは詳しく触れませんが、三十三回もの精神科入院の間には、医療スタッフの個人的な怒りの感情などによって、単なる制裁としての行動制限を受けては保護室に隔離されたり、同じ病棟の男性患者からレイプされたり…。
精神科入院中は本当に思い出したくもないようなつらい出来事を繰り返し受けてきた私です。
しかし、精神科病院での出来事をベースに、これまで余りにもつらい経験を繰り返し過ぎたことが原因で、逆に私はいい意味で心が麻痺したのでしょうか?
どん底の入院生活の中で、つらくて死にそうな状況をも「楽しい」と思い込まないと私は生きては来られませんでした。
余りに毎日がつらかったからか、私は自分のなかでの幸せに対するハードルが妙に低くなり、いろんなことを望まなくなりました。
それは同時に他の人を羨まないという考え方にも繋がりました。
羨まない、妬まない。それらのものの見方を得ただけでも人生はぐっと楽になりました。
発達障害そのものの生きづらさに併せて、二次障害で苦しんだ経験や治療のために入院した精神科病院で体験した様々なつらい出来事は、しかし私の人生に対する受け止め方を大きく変えるきっかけにはなりました。
期待しなければ心を乱しません。多くを望まなければ欲望に溺れません。
心を乱さず、余計な物欲や名誉欲に溺れない生き方は、私の人生を自由にさせ、自分らしく生きるための原動力へと形を変えました。
これまでの苦しい経験を超えたからこそ、私は自分の人生をある意味達観できたともいえます。今の自分の幸せを構成するのは、過去の私自身の苦しみに他ならない。そう私は考えています。
生産性≠「人間」としての評価、その本当の理由
発達障害というテーマからはちょっと逸れますがこの夏、ある国会議員が月刊誌に「LGBT当事者は生産性に欠けるので公費による支援は必要ない」という趣旨の寄稿をし、問題の記事が物議を醸したことはまだ記憶に新しいかと思います。
国会議員の発言に反対の立場の意見を中心に、個々の生産性といったセンシティブな問題について各方面で激しく炎上し、記事の狭観な内容に対する抗議が続いた結果、問題の月刊誌は休刊(事実上の廃刊)に追い込まれました。
善きにつけ悪しきにつけ、物事に対する着眼点がずれがちな私は、自身が「余り生産性のない」障害当事者であり、この発言によって自分の尊厳が揺らぎかねないという事実以上に、寄稿した国会議員が自身と同年代の女性だという部分に深く興味を憶えました。
わからないことはわかりません。自身が性的に「ヘテロ(恋愛の対象が男性である女性)」な私にとって、セクシャルな立場でマイノリティの方々が、社会で当たり前に生きたいと願う上で、どのようにそれらの願いを切り捨てられ、いかに苦しまれてきたのか、よくも悪くも想像の域を超えません。
ただ、そこに「生産性」の問題が絡んでくると、私は(発達障害当事者云々という自身の属性は関係なく)この発言に対して黙って見過ごせない心持になります。
現在の日本社会では特に経済的な部分で「生産的」な活動ができるかどうか、平たくいえばどれだけより多くのカネを稼げるか(もしくはカネを稼げる子どもを「生産」つまり産み育てられるか)によって人間の価値は推し量られがちです。
障害の有無に関わらず、生産性のさらなる向上を目指すレールから一度ドロップアウトすると、もう二度と「まともな」社会人には復活できない。私たちは子どもの時から様々な場所でそう教え込まれ、洗脳され、ビビらされてきました。
幼少期からインプリンティングされ続けた「生産性」という言葉の呪いが、いかに私たちの心を疲弊させ、他人を謗り妬ませ、誰のことも信じられない、愛せない…そんな寂しい心の状態に自分たちを追い込んでいることでしょう。
社会に対しどれだけ生産的な活動をし、褒められるような仕事をし、多額の納税を果たせるのか。そんな視点のみで生きている人の価値を判断するのは間違いです。
それらはその人の「活動」や「仕事」や「納税額」が評価されるのであって、決してその「人そのもの」の評価とはイコールだとはいえないからです。
だいたい、どのような理由であり、どのような判断基準であろうと他人の人生や他人の生命を「生きていていい人」「存在していい人」とジャッジすべきではありません。
自分を好きになることすら難しい発達障害当事者の「生産性」
そこを再確認した上で、発達障害があっても幸せに生きられる社会を実現すること、実現するためにまずは自分を好きになることが大切です。
生き方に対する価値観は各々自由です。
自分がこの世に生きていていいのかどうかという根本的な問いに対しては(本人が)自身の意思や自分自身というポジションからの判断のみによって、自分はどう生きていたいのか、生きていて幸せなのか、幸せを享受できているのか…だけに答えを委ねられるべきです。
そこには(本人との)どういう関係性であっても、他人の考えを混ぜて判断してはならないのです。
社会における「生産性」の問題は、すぐに生命そのものに対するジャッジと繋がってしまうからこそ危険なのです。
それでもなお「生産性」と生命の価値について考えろというのであれば、生産性イコール経済的な活動、という視点から完全に切り離しましょう。
人間の根本的な価値や社会に対する生産性を問うとすれば、真の生産性とは「誰かを幸せにでき得る力」と私は言い換えたいと思います。
それは決して他者を幸せにすることだけではなく、本当に自分自身にとって大事な存在である「自分」を幸せにするということも含めるのです。
むしろ自分自身が幸せではなく、心が救われていなかったとしたら、誰のことも幸せにはできません。
思えば今年の夏ほど「生産性」という言葉がネット上を頻繁に飛び交ったことはなかったかも知れません。
国会議員の考えとしてはもとより、ひとりの人間の私的な意見としても例の発言を黙って見過ごしてはならないかとは思います。
しかし、発言の内容そのものは許せないにせよ、例の「生産性」にまつわる彼女の持論が、存在としての人間の本質を考え直すためにはいいきっかけだったのかも…と私は捉えています。
障害を負う自分を愛するための具体的な取り組み
発達障害者の問題に戻します。
自身のこれまでを振り返っても、子どもの時からずっと発達に歪みを負っているがために、自分の努力を正当に評価されないばかりか「ダメな子ね」「能力が低い奴」「コミニュケーションが図れない人物」…長い間、ありとあらゆる「呪い」によって私は苦しめられ続けてきました。
私たち発達障害者にとって「自分が好きになる」というミッション自体が、もう如何にしても実現不可能な目標に思える場面は多い気がします。
いきなり「自分を好きになる」のが困難だとしても、その前段階として自分を大切にするという目標をクリアすることは、しかしひとつの方法でしょう。
心が折れた時こそ自分を大切にしましょう。
疲れている時こそジャンクフードじゃなくておいしいスローフードを食しましょう。
自分の心身のみならず、お財布にも優しくするために自分でごはんを作れば、さらに作る過程を通して「自分」を見つめ直すきっかけが得られるでしょう。
または、大事な自分のためにタバコをやめてみる、アルコールを減らす、甘すぎる炭酸飲料をちょっと高価なミネラルウォーターに置き換えてみる。あるいは真逆に自分へのご褒美としてそれらを意図的に摂ってみる…何でもいいのです。
お金がなければきちんと睡眠時間を確保する、とか好きな音楽を聴く、気になっていたアニメを観るなどでもいいです。
あなたにもしも誰か心許せる人がいるなら、良識の範疇でその相手に一回くらいならゴチになってもいいかも知れません。
考えてみてください、心が折れそうなくらいに今のあなたはつらい気持ちに追い込まれているのです。
これまでは「他人に依存してはならない、社会に迷惑をかけてはならない」とひたすら教え込まれてきたあなただろうと思いますが、考え方の方向性を変えるためにも「甘える練習」としてゴチになるのはアリです。
生産性云々という意味では決してなく、自分自身を見つめ直すという視点から自分に与えられた課題をきちんとこなすのも名案です。
やるべきことをきちんと達成できた時に得られる満足感ほどその人を幸せにするものはないからです。
そんな些細な自分を見つめる作業の積み重ねが、実は自分を愛し、自分を正しく理解する基礎になっていくように思います。
「自分を好きになる」という人生必須のテーマを、クリアすることすら無理だと思っているあなたに対し、私は真の生産性の高さとは、あなた自身を含む「誰か」を幸せにできる力だという真実を何より知っていただきたい。
そのあなた自身を幸せにする練習のひとつとして、ご自分の心や体を大事にして欲しい…そう私は声を大にして申し上げたいのです。
心を自由に保って自分らしく生きるためのポイント
まず、原点としてあなたは唯一無二の存在だと今一度考え直しましょう。
そこを基本に以下のように考えていただけると、少しは発達障害を負っている自分もこの世にかけがえのないオンリーワンだと次第に思えていくはずです。
生きるのがつらい自分、自分なんてどうせダメだと思ってしまう自分。
それも本当はあなたにとってあなた自身が「大切な自分」だからです。もし本当に「どうでもいい自分」でしかなかったら悩むことすらありません。
悩むのはそれだけ「もっと向上したい」からです。
もっとよりよく生きたいと願うからこそ、願ってもうまくは生きられない自分を責めたくなるのです。
その事実に気づき、本当は向上したいと常に願っている自分の強い意志を、どうか正しく評価してあげてください。
自分はダメな奴だと思った時には、決して自分を批判的な言葉で追い込んでしまうのではなく「そこまで向上心が強い私なんだな」というふうに受け止め方を変えてください。
その繰り返しによってだんだん物事の考え方の癖が変わります。
うつ状態にある人は、本来の性格が真面目で几帳面すぎるがゆえに、他人に対して完璧を求めるだけではなく、自分自身の存在に対しても非常に厳しくジャッジしてしまいがちであり、だから余計に落ち込んでしまうわけですが、それらも物事に対する考え方の歪み(=こだわり)が原因だと思います。
真面目で几帳面な気質は、活かし方次第ではものすごく武器になる優れた性格だともいえます。
ただ、全てにおいて真面目であるがために生きづらくなっては本末転倒なので、そこはちょっと考え方の癖を変える反復練習をしてみませんか。
発達障害そのものは生まれつきの脳の特性でもありハンディキャップでもあります。その部分はいわば「天賦」のものである以上変えることはできません。
しかし、発達障害当事者としての人生を生きやすくするための各種支援制度も(不十分ながら)あれば、物事に対する考え方を工夫することによって、人生をもっと楽しく生きられる方法というのもいろいろ見つかるはずなのです。
あなた≒発達障害者、本当はあなた=「あなた」
あなたは確かに発達障害という診断を受けていらっしゃるのかも知れない。だけど私は同じ当事者として、あなたにこうも申し上げたいのです。
あなた≒発達障害者であっても、本当は同時にあなた=「あなた」なのです。
あなたが「あなた」として生きられることが、人生においては一番重要且つ意味のあることであり、そのための支援制度はいろいろあります。
他人のために生かされるのではなく、あなた自身のために生きるのです。
そう考えた時に、もう例の生産性云々の話なんてどうだっていいじゃないですか。あなたが人生を楽しむことそのものが、あなたという存在にとって一番生産的な活動です。
あなたが苦しいのであれば、発達障害を事由にもらえる手当などはフルに受給して、暫く人生を休むのも方法のひとつです。
目先のことに囚われて絶望しているあなたも、本当は二、三年休んだって、長い人生においてどうってことはないのです。
さまざまな原因であなたが生きるのに疲れている間、あなたが少し人生を休む上で、公的な支援を受けるために必要な税金によって…もしもこの国が傾くんだとすれば(本当はそんなことは絶対にないので安心してください)。
それはあなた自身のせいではなく、むしろ政治家が無能だと責められるべきところです。
休んでいるあなたのことを口汚く罵る奴や責める奴も相当数存在するのも事実です。
ただ。そういう連中も、現実にはあなたに対して何かしてくれるわけでもなければ、この世にひとりしかいない「大切な存在」としてのあなたの身代わりに生きてくれるわけでもありません。
あなたの人生を「あなた」として生きられるのは他ならぬあなただけです。
どうか人間の存在価値の原点たるその事実にあなたが一日も早く気づき、本当の強さを得て、たった一度の人生を「発達障害者」としてではなく「あなた」という存在、として全うできますように。
あなたの人生をあなたとして生きるための支援という点だけで鑑みれば、健常者としての人生より、むしろ「障害者」として生きたほうが、使える方法や活用できる手段はそのじつ多いのです。
あなたが楽しく生きるための目的ならば、このさい使えるものは何でも使えばいいのです。
それが原因でこの国が傾いてしまったりはしません。
あなたが日々楽しいということが、あなたの人生で何よりの「大正解」なのです。
今後は「発達障害である自分を恥じる」というこれまでの視点から、自身が障害者である事実をうまく「活用する」という視点で生きるのもアリです。
そんな新たな視点こそが、実は長い間この社会の中で虐げられてばかりだった発達障害者のポジションを、しかし今後急激に向上させていく鍵なのではないか…自身も発達障害当事者である私は内心ワクワクと希望を抱きつつ注目しています。
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