この記事は重度の発達障害を抱える50代の男性に書いていただきました。
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発達障害(ADHDとLD(学習障害))だと気付いて診断を受けたのは30代の大人になってからです。発達障害の兆候は小さい頃から現れていますが、今回は私の親にも協力してもらい、幼少時代、中学生時代、高校生時代、そして大人になってからを振り返ってみることにします。
小学校卒業までの幼少時代
下のカッコ内は当時、親が思っていたことです。
・3才になるのに話せない(掛りつけの病院へ)
・運動がとても苦手(手足がばらばらに動いてぎこちない印象)
・文字を裏返し(鏡文字)に書く(子供にはよくあると思っていた)
・授業中に落ち着きがなく立ち上がって歩いてしまい注意される
・人の輪から外れている(内向的な性格だからだろう)
・勉強が遅れ気味(努力が足らないと叱っていた)
・物を壊してしまう(乱暴にしていないのに物が壊れるので不思議だった)
・忘れ物が多い
・整理整頓が苦手
話し始めが遅い事が気になって掛りつけの病院の医師に相談したそうですが、「男の子は遅いから心配しないように」との診断を受けたと親は言っていました。
「授業中に落ち着きがなく立ち上がる」「忘れ物が多い」「整理整頓が苦手」はADHD(注意欠陥多動性障害)の多動性や不注意性が影響している行動で、勉強ができないのはLD(学習障害)、既に幼少期からその性質が現れていました。ちなみに忘れ物が多いことや整理整頓が苦手なこと、物事を学習することが苦手なことは今も直ってはいません。
中学時代
・教科も増えて文字数も多くなり勉強は更に遅れてしまう
=>先生の認識では本人の努力が足らないのだという考えでした。
・英語や数学が特に苦手で数字や英字が裏返ってしまうので混乱する
=>通常、鏡文字は小さい頃には直っているので、中学になってからも続いているのは珍しいそうです。
・体育授業でも同級生からもぎこちない動きをからかわれる
・意思表示に時間がかかってしまうために誤解されることが多い
・忘れ物が多い
・整理整頓が苦手
・友人がいない
=>幼少から内向的な性格だったので、家族は中学生の男の子はそいうものだろうという軽い気持ちでした。
・徐々に不登校になった
=>同級生のからかいを受けても相談する友人もなく、つまらない日々をただ漠然と消化するように過ごしていました。
高校時代
・教科書の文章が飛び飛びになり正しく読めない
・図形やグラフが全く理解できない
・整理整頓が苦手
・その場の雰囲気を感じたり相手の気持ちを察するのが苦手
・忘れ物が多く、物を失くす
進学した高校の雰囲気が自分に合っていたようで不登校も無くなり、家族の目には楽しそうに写っていたようです。
学習面ではゆっくりと説明してもらえば理解出来ることもあったので、勉強ができないのは「自分の努力が足らないのだ」と強く感じるようになっていました。
就職..ここからが本当に辛かった時期
就職して基本的な事が出来ない現実に直面することになります。ざっと思いつくだけでは以下のような困った行動があります。
・電話の伝達が困難でメモを取る事も出来ない
・一度に複数の指示をされると混乱する
・優先順位が判らない
・落ち着きがないので話を聞いていないような感じを与える
・何かに集中していると呼びかけられても気付かない
・忘れ物が多い
・備品等を紛失してしまう壊してしまう
・整理できない
・返事が遅い
・連絡を忘れる
・コミュニケーションが取れない
・お金の管理が出来ない
自分はどうして人が簡単に出来ることが困難なのだろうと思い悩む事が多くなり、会社でも日常的にからかいや悪口嫌がらせ等を受けるようになりました。私は真面目な性格ですので、家族は会社の指導や環境が悪いのではないかと考えていました。
退職を迫られる
最初に就職した会社で退職を迫られました。沢山の欠点を持っている社員を雇うのは会社にとってもマイナスだと理解することは出来ます。からかいや罵倒されるストレスで尋常ではない程体重が激減し、情緒も不安定になっていく姿を目の当たりにして、家族はここは暫く休養し、別の会社に再就職するように私に退職を勧めました。この時には既に発達障害による二次障害(不安障害や鬱など)が現れている状態でした。
その後、心身共に完全に回復することは難しく長い月日が過ぎてしまいました。時折アルバイトをすることもありましたが、コミュニケーションが取れない、連絡を忘れる、複数の指示に混乱する等職場を変えてみても結果的に出来ないことは変わらなかったのです。
そんな繰り返しに自信を無くし気持が落ち込み、眠れないので、精神内科の受診をしました。医師の診断は「ストレスによる疲れ」。安定剤を処方されて半年間通院しましたが回復するどころか生きている意味が解からなくなってしまうようになり、時折「死」を考えるようにまで落ち込んでいきました。この自殺願望は薬による副作用のせいなのか、発達障害の二次障害によるものなのかは未だに分かりません。
気付きと病院選び
目に見える衰弱と気力を失った自分自身に向かって「生きてさえいればなんとかなるから、自分で命を絶つような事だけはしないでね」と声を掛けました。そして返された言葉が「僕は何か障害があるのかも知れない」でした。自分の質問に自分で答えている形になっていますが、これは小さい頃から心の奥底に眠っていた「私は障害かもしれない」という思いが表に出てきた結果だと思います。私は自分が障害を持ってるとは思いたくなくて、心の奥に押し込めていたのかもしれません。
その後、障害を診断してもらえる専門医を探して、親と一緒に病院を受診しました。例え成人であっても家族や身内が付き添って本人の代わりに正確な症状を医師に伝えるのはとても重要なポイントだと思います。
いくつかの検査の果てに下された診断は「学習障害」「注意欠陥・多動障害」で、大人にしてはかなり重度の発達障害とのことでした。医師の説明によると知的障害を伴わない場合は家族もなかなか気が付かず、本人も努力が足らないのだと思いがちになりなかなか発見しにくいとの事でした。
小さい頃から一緒に出掛けた時に行先を告げづ何処かに行ってしまったり、それを咎めても反省している様子が無かったりと不可思議な行動がいくつかあったそうですが、性格や個性なのだと安易に片づけられていました。親がもっと早く気が付いていればとの後悔は拭い切れませんが、当時は発達障害についての情報がほぼ無いような状況でした。
「治療は?仕事は?これからについて」
現在は医師からストラテラを処方されており、自分では自覚はないですが以前よりも受け答えがしっかりとしているように思います。ただ副作用も出てしまい食欲が落ちてしまう事が多いです。仕事については残念ですが医師から就職はかなり難しい状態だと診断されました。
外見上には問題ないように見える「見えない障害」なので社会の壁は厚いように思いますが近年では芸能人が発達障害であることを発言したりメディアでも取り上げられたりすることで理解も少しずつ深まりつつあるのではないかと感じています。家族には悲観的にならずに心に余裕を持ちながら見守ってもらっています。
[参考記事]
「40代で発達障害(ADHD)と診断された私の今」
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