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発達障害者だから失敗したの?二度の結婚と離婚を経験した私

この記事は前田穂花さんに書いていただきました。

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 身体の障害とともに発達障害と軽度知的障害とを併せ持つプロライター・前田穂花です。

 今日は私の二度の結婚と離婚の経験を通じて、発達障害者の恋愛や結婚の問題、発達障害当事者として欲しい支援などを本音でお話ししたいと思います。

*今回の記事はその性質上、個人が特定されないよう事実をもとに若干の脚色を加えてあります。内容そのものは筆者の実体験のままですが、私以外の人物の描写については敢えてファジーにさせていただいていますことをご了承ください。

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二十歳での結婚の理由はただ毒親から逃げたいがため

 私はこれまで二度の結婚、そして離婚とを繰り返しています。ちなみに結婚相手の男性はどちらも精神障害者(統合失調症患者)でした。

 私の一回目の結婚は若干二十歳の時でした。早くして結婚したのにも理由があります。

 詳細は割愛させていただきますが、大人の都合で勝手に養子縁組させられるなど、私はかなり複雑な成育歴を持ち、居場所としての安心感を得られない家庭に育ちました。

 さらに当時はまだ発達障害の確定診断こそついてはいませんでしたが、私は発達の歪みのために、大人からみればかなり「育てにくい子ども」でしかなく、しかも私を養育していた元養親はいわゆる「毒親」でした。

 少女期の私は現在でいえば虐待(としか思えないこと)を常時受けているような状況でした。娘の私を苦しめることでしか大人(親)としての支配感、満足を得られない養親からとにかく逃れたいがために、私は高校卒業後ほどなくして家出、上京しました。

 最初の結婚の理由は、私の住んでいた襤褸アパートに、やはり「家庭で愛情に飢えていた」と語る男がいつの間にか棲みついてしまったことです。

 当時は同棲が当たり前の今とは違って、結婚前の男女が一緒に暮らすなど言語道断、知られればおもむろに眉を顰められるような時代でした。若い女性として周囲の目を気にしていた私は一日も早い入籍を望みました。

 さらに、家出娘でしかない自分にとって、結婚は就職はじめ様々な公の場においての確固たる身分保証であり、何かにつけ後ろ盾になり得ると考えた私は、もう相手の素性なんぞどうでもよかったのです。

 しかし、安易な結婚はやはり不幸の元凶でしかありませんでした。

 お互い若すぎたこともあって、家庭は口論が絶えず、精神疾患も有していた夫は事ある毎に逆上して私を殴りました。

 アパートの窓ガラスは妄想に突き動かされた夫が素手で叩き割り、それを修理するお金も、ガラスが刺さった夫の手のけがの治療費すらも捻出ないほどに困窮しても、私も夫も頼る実家、相談できる家族などなく、割れたガラスの破片が散らばる部屋で真冬を過ごした経験もあります。

 一切の支援はしてくれない反面、夫の実家自体は裕福だったため、彼の親族は私に跡取りとしての男の子の出産を期待していました。しかし、私に妊娠の兆候は全く表れず、いっぽうで夫は浮気相手の女性との間に女の子をもうけました。

 統合失調症による妄想から来る夫からの激しい暴力に耐えかねて千葉県内のシェルターに逃げていた二十五歳の私は、夫が他所の女性との間に娘を作った話を知らされ、そのまま離婚となりました。

行く当てもないから高校の同級生と同棲、そして再婚

 シェルターを出た私は、行く当てもなく高校時代の同級生の男性のもとに逃げ込み、そのまま同棲を開始しました。同級生の彼は高校時代はとても優秀で、3年間トップクラスの成績を保ち続け、国立大学の工学部に現役で進学を果たしました。

 しかし、そこで燃え尽きてしまった彼は大学入学直後に自室でリストカット。以来休学と復学とを繰り返し続けている状態で、私と暮らし始めたのちも彼はなかなか学業が成り立ちませんでした。

 あと…ちょっと申し上げ難い内容ですが、若い女性と同棲している二十五歳男性であるにも拘らず、彼にはセックスしたいという欲望が全くありませんでした。

 それは私を大切にしているというよりもむしろ「生身の女性は怖い」からだ、という理由を主張し続けていた彼が印象に残っています。

 今風に表現するなら。彼は「二次元の嫁」を非常に愛していて、彼の脳内においてはアニメの主人公がリアルを超えることなどなかったのです。

 そんな一風変わった男性ではありましたが、何となくヤバいとは思いつつも、これまた帰れる実家もない私は提出期限前日にも未だに卒業論文が完成していない彼に泣きつかれ、購入したてのワープロで(彼は工学部土木科の学生なので)それっぽく「○○県の橋の歴史」というタイトルで原稿用紙50枚分相当の「卒論」をゴーストライティング。

 学部に9年も在籍しているということで担当教官も甘々で見逃してくださったので、二十八歳になる春にやっと卒業が決定した彼と、卒論を提出した足でそのままは婚姻届を出しに市役所に向かったのでした。

 しかしながら、担当教官の斡旋のもと鳴り物入りで入社が決まった設計コンサルタント会社での勤務さえも、彼は2ヶ月も続きませんでした。

二番目の夫までも精神疾患を発症

 「いつも後ろから見られている」「自分は監視されている」。夫の言動は日を追うごとにおかしくなっていきます。

 妻である私は彼の主治医から「精神分裂病(当時)の疑い」だと夫に対する診断について説明を受けました。

 彼の職場には差し障りないように「抑うつ神経症」という内容の診断書を提出し、休職扱いとなった夫は、しかしその後二度と出社することはありませんでした。

 退職以来、夫は引きこもりになってしまいました。

 アルバイトに挑戦したこともありましたが、バイト先でトラブルを起こしたり、抗精神剤の副作用で朝起きられずにフラフラだったり、とにかく仕事にならないのです。

 夫が世の中からどんどん切り離されていく一方で、妻の私は官能小説家としてプロデビュー、そこそこの成功を収めていくようになりました。表面的にはそれでもものすごくラブラブな様子を演出し続けましたが、私の仕事上の高評価が余計に二人の溝を深めていきました。

 病気で無職であっても、男尊女卑の色濃い田舎の長男である彼は、これまた最初の夫同様、親から「一日も早く男の子の孫を」と望まれていて、その期待はいつしか嫁である私への圧力へとすり替わってしまいました。

 盆や正月に夫の実家に帰省するたびに、子どもはまだかと親族から集中砲火を受ける「嫁」の私を、しかし病気の夫はかばうという発想すら持ち合わせていませんでした。私はいつしかうつ状態になり、帰省のたびに疲れ果てて、そのまま入院と相成ることも度重なりました。

 結婚して同居こそしていても、そもそも一切の性交渉がない以上、妊娠しないのは当然なのですが、夫の実家に無意味な不妊治療を半ば強制されたこともあって医療費がかさみ、働いていないにもかかわらず、夫には借金を重ねて浪費する癖もあったため、いつしか負債は私の手に負えない額まで膨れ上がって自己破産。

 結婚14年目の夏、思い余った私は真夜中、ノートパソコンだけを抱きしめるようにして寝ている夫を残したまま家を出ました。

 三回に亘る離婚調停の申立てはいずれも不成立。さらに家庭裁判所で提訴。「悪意による遺棄」を主張する夫と、裁判所で揉めに揉めまくってやっと離婚が成立した秋、別居期間も含めれば私と二番目の夫との結婚生活はすでに20年目を迎えていました。

発達障害者が抱きがちな結婚へのイメージの曖昧さ

 本当に軽はずみな気持ちで結婚した私に対し、非難が集中することは承知の上です。でも、もしも私にきちんと理解のある肉親が存在し、あるいは(経済的にということではなく)もっと様々な助言を受けられるような環境が整っていたならば、もう少し結果は違っていたのかも知れません。

 言い訳のようですが、私たち発達障害者は長いビジョンで見通しを立てることが非常に不得手です。結婚一つとっても、知的な障害の有無に関わらず、例えば女の子であれば真っ白なウエディングドレスに身を包み、好きな男の子と一緒に暮らして、いつかその彼との愛の結晶としての赤ちゃんを産む…くらいの幼過ぎる曖昧なイメージしか抱けないのです。その先の育児だとか、家計の維持だとか、そういう結婚に不可欠な問題ははなから抜け落ちているのです。

 そういった発達障害者の特性を理解していただいた上で、親御さんに対して当事者としてお願いしたいことは結婚以前の問題として最低限の家事や金銭管理の方法など、自立していく上での最低限のスキルは子どもさんにしっかり教育していただきたい。

 これは障害の有無に関係なく、どのお子さんにでも言えることでしょうが、生き抜くためのある程度のスキルがなければ、男女関係なく結婚どころかひとり暮らしも実現できないのです。

発達障害当事者として親御さんへお願いしたいこと

 親が子どもに残してやれる最大のものは、財産や学歴といった目に見えるもの以上に「親亡き後、子ども本人が生き抜くために必要なエネルギー」なのではないかと個人的には考えています。

 もしも、本人が経済的に困窮すれば、それを補う制度は不十分ながらも整備されてはおり、障害ゆえに判断に迷う場合やうまく日常生活を営めない場合にも、それなりに支援を受ければ解決できる部分は多いだろうと思われます。

 両親が亡くなった後も、万一困った場合には制度でも支援でも何でもいいので使えるものは最大限に活用して、本人が自分らしく生き抜けるだけの力を子どもの時から身に着けさせていくことが、親として子どもにできる最高の「教育」だろうと、私はふたりの夫たちの抱えていた問題や、私自身のこれまでを振り返って強く実感しています。

 言い換えるならば。経済的な問題や障害があるがゆえの、社会生活を営む上での不利益については、十分だとはいえないまでも制度や様々な支援が、本人の生活のしづらさに対しカバー可能な部分だといえるでしょう。

 ただし、障害を理由に過剰にひねくれてしまったり「どうせ私にはできないんだ、やっても無駄なんだ」と何もしないうちから投げ出してしまうようなメンタルでは、活用できるものも使いこなせないまま、世の中を恨んで一生を終えることに繋がりかねません。発達に障害のある子も、そうでない子どもも。

 育てる上で何よりもウエイトを置くべきは「心のしなやかさ」だろう。あと「折れない心」はそれだけで人生の財産なのではないか。「ヘタレ」で相当な「かまってちゃん」な今の私はそう強く想っているのです。

[参考記事]
「精神障害者保健福祉手帳を取得したことでの差別と返納の経緯」

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