この記事は50代の女性に書いていただきました。
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障害が重くても甘えは許されない
私は発達障害に身体障害と軽度知的障害とを併せ持ちながらも、完全自立生活を送っています。五十歳を迎えた今でも、本来子ども特有の障害特性だとされる「多動」が色濃く残っている状態です。その結果、最重度の発達障害と判定された私は、精神障害者保健福祉手帳1級を所持しています。
身体の障害についても、立位はもちろん、自力ではうまく座位を保てない私は、常に車椅子を必要とし、重度(Ⅰ種2級)判定を受けています。また、障害的には軽度とはいえ、生まれつき負った知的なハンディキャップは、私を過剰なほど不安にさせ、やたらおどおどした振舞いを取らせがちです。
詳しいことは割愛しますが、非常に複雑な成育歴及び生活歴を負う私は、現状家族も親族もなく、完全に天涯孤独な立場に置かれています。
しかしながらその「誰も頼れない」状態が、私をとても強くさせました。現在の私は心身に大変重い障害を抱えながらも、都下のバリアフリー住宅で独り暮らしをしています。私は一切の福祉サービスを利用せず、ライティングを自身の生業にして、自力で毎日の生活を営んでいます。
その理由は単純です。「自分でできることは、精一杯自分の力でがんばりたい」からです。もしも、本当に自分の力では立ち行かなくなってしまったりしたら、私も然るべき相談窓口を訪れて、自身の今後について率直に話し合い、妥当な支援をお願いしたいと考えています。
しかし、今は工夫すればどうにかがんばれると思うので、今後も可能な限り自分を試し続けたいと願っています。
子どもの時から自分を責め続けた結果「二次障害」に
かつての私は、今に比べて遥かにネガティブでした。子どもの時から「おかしい自分」は同級生はじめ周囲に合わせない限り生きてはいけない、そう思い込んでいました。
他の子どもと「同じ」でないことについて、日々大人から訳もわからず叱責され続けた私は「自分なんてダメな子だ」とレッテル貼りをし、大人の要求に応えられない「ダメな自分」を自ら毎日責め続けました。
私は中学生の頃から発達障害のために周囲に馴染めないことが原因で、さまざまな症状を呈する(二次障害としての)適応障害を起こしました。メンタル的に不調をきたした私は思春期から四十六歳までの間に、三十回を超える精神科入退院を繰り返しました。摂食障害を起こした私は174センチの身長がありながら38キロにまで体重が減少しました。ものを食べても味がしないばかりか、食べることそのものが辛くて吐いてしまいます。
吐くのを繰り返すうちに、食べもの自体を身体が受け付けなくなりました。痩せすぎて生理も止まってしまいました。
いっぽう、拒食の時期が過ぎると、今度はいくら食べても食べても満腹感(満足感)が得られない過食へと走りました。たちまち私は痩せていた時の倍の体重になり、それでも食べることが止められなくなって、MAXで96キロにまで太りました。
拒食の時期は食べることが私にとってただ恐怖でしかなく、しかし過食の時期は、常に食べていないと不安で消えてしまいそうな気持ちに陥りました。
体重のコントロールも感情のコントロールもできない自分を、私は常に責め続けました。私は事ある毎にリストカッティングに走り、あるいはオーバードース(薬の過剰摂取)を繰り返してしまいました。
手首を切って赤い血が流れているのを目の当たりにすると私はそれでも「生きている実感」が得られるので、自分が消えそうになるとリスカするというノリでした。
真逆に、オーバードースで意識をなくすことは私にとって死の模擬体験でした。意識が飛ぶと全ての苦痛から逃れられる錯覚を得られるのです。私は自分を傷つけることによって、生きている実感を得たかったし、死という究極の救いを得たかったのです。
自傷行為を繰り返す私を変えたある気付き
ある時私はふとこう思いました。例えば、服を買う時にはサイズやデザインや色味など、自分に合う品を探すものです。どんなに好みの服であっても、小さすぎて着られなければ違う品を買い求めます。色やデザインが自分の好みであっても、実際に試着して顏映りが今ひとつであれば、やはり買い控えてしまうものでしょう。
既成の服に合わせて自分が縮こまったり、大きくなったりはしません。服を買う場合には自分自身に服のほうを合わせるのです。
それなのに、私は「社会」とか「学校」だとか「普通の人の考え方」だとか「一般的な人の基準」に無理して自分を合わせようとし続けていたのです。私にはその服(一般人の基準)は合わないのにも関わらずです。
私がそう疑問を感じた時、ちょうど自分に合わせて服を買う時のように、自分を社会の規範に無理して合わせるのではなく、自分に合う集団、自分を大切にしてくれるコミュニティーに私は交わろう、と決意することができました。
「定型発達の人の社会に自分を殺して合わせようという努力は自分をスポイルするだけだからもう止めよう」
心のなかで毎日自分に言い聞かせているうち、次第に私はいい暗示にハマり込み、少しずつ考え方の癖を改めることに成功しました。
私は私です。私というパーソナリティの代わりは誰にも務まりません。そこに気づけた時、私はいい意味で自己中心的になりたいと思いました。他の人に合わせなければ生きていけないような息苦しい人生を、自らセレクトする必然などありません。
私を非難する人間はたくさん存在する現実
重い(発達)障害があろうとも、私として生き、私として行動する。他の人に合わせない、自分を苦しめるだけの共感や忖度ならもう要らない。そうはっきり言える私になろうと決意しただけで、人生、そして自身の心は俄然楽になりました。
定型発達の人、健常者の方々に私を似せる必然はないんだ。私は私にあった生き方をすれば大丈夫なんだ。そう考え続けるうち、私の心は次第に荒れたり、病むことが少なくなりました。
四十歳を過ぎた辺りから、私には発達障害の二次障害としてのメンタルの不安定さは徐々に現れなくなりました。かつては薬物依存一歩手前の如く、病院から出された向精神薬を一日当たり50錠以上服薬していた私が、現在はてんかんの薬以外、精神科から出される薬に頼らずに生きていけるまでに回復しました。
しかし、世間には私の考え方や生き方が悪い琴線に触れるのか、私の意見にイラッとされる方が少なくはない様子です。私のblogのコメント欄その他には、健常者からの悪意ある書き込みがなされるだけではありません。残念なことですが、障害当事者やご家族の方がSNSのDM機能を利用し、私を誹謗中傷としか思えない言動で詰って(なじって)来られるケースも、少数ながら現実に見受けられます。
実際の誹謗中傷の内容は、健常者によるものは「ガイジ(障害児者の蔑称)死ね」「天使ちゃん(同じく障害児者の蔑称)は税金の無駄遣いをせずにさっさと天国にお帰りください」という内容が殆んどですが。
対して、発達障害者を含む障害当事者のそれは「オマエのような“がんばってますアピール”の障害者がいるから、俺たちが余計に差別されるんだ」という趣旨のものです。
それらの言葉に、いずれにしても私は何とも息苦しくて仕方ありません。
おそらく、私はプロのライターとして名前も顔もオープンにしつつ仕事をしているせいで、余計に世間の人のターゲットにされてしまいがちなのでしょう。
ターゲットにされること自体「オマエの自己責任、そんな仕事をしているオマエが悪い」と、まさに八つ当たりの如く私のTwitterやFacebook、blogに書き込みがなされています。
当事者からの批判でうつ状態に
私は極力無視を決め込んでいるつもりですが、心無い書き込みはそれでも連日続きます。私のほうは名指しで非難されるにも拘らず、相手は匿名で言いたい放題だという、その力関係のどうしようもなさも手伝ってか、私はしばしばひどいうつ状態になりました。
さらには、私と同じような属性の障害をお持ちだという方の一部から私宛に匿名で「服装が気に入らない」「あなたの着ているもののセレクトは障害者への偏見をさらに助長させる」「幾ら発達に遅れがあるとはいえ五十歳の常識的な服装からかけ離れている」等、SNSに画像をアップした際の私の着ている服や髪形などに対する意見が連日寄せられたことがありました。
普段であれば、それらの声はあくまでも「他人の考え」として距離を置ける私なのに…それら服装に対する「指摘」には完璧にメンタルをやられました。
今年のゴールデンウィーク、自身が着ている服に対して受ける当事者からの連日の批判の言葉に、私はすっかり精神的に故障してしまいました。神経が逆立って夜も眠れなくなった私は、連休中のある朝、クローゼットから引きずり出せるだけの衣装を全部床にぶちまけると、自身でも無意識のうちにゴミ袋に放り込んでいました。
本来であればお気に入りだったはずの服を半分くらいゴミ袋に詰めたところで私ははっとしました。手持ちの服を衝動的にすべて捨ててしまいそうになるくらいにまで、いつしか私はギャラリーの意見に心を病み、他人の目を恐れてしまっていたのです。
ギリギリのところで気付いたので、自分の持っている衣類をゴミの日に出してしまうことだけは避けられたものの、匿名の他人からの無責任な批判に完全に心をやられ切った私は、しばらく怖くてパジャマから普通の服に着替えることができませんでした。
心病んで…着替えることができずに寝間着のまま「何でこんな服を着てるんだよ?」という声が、まるで幻聴のように脳裏にエコーしまくっている私は、しかし片付ける気力すら湧かず、クローゼットから引っ張り出してぶちまけた服に、ただ埋もれるように連休を過ごしていました。
少し時間が経過した現在では、一日も早く本来の自分を取り戻したいと願えるようになりました。私はこれまで以上に「一般的な五十歳らしからぬ」服を意識的に部屋のなかで纏い(まとい)、スタンドミラーの前に立つ癖をつけています。そして、鏡に映る自分を見つめては、自身の折れた心をどうにか鼓舞しつつ「他人は他人、私は私」と言い聞かせて、私自身に暗示をかける努力をし続けています。
しかしながら、一連の出来事が私には今でもトラウマです。私は未だに…他人の目が怖くて、他人に会うのが憂鬱で、余り外出できない状況が続いています。
他人の意見への違和感
障害者支援センターの職員の方をはじめ、いろんなボランティアの方や私を応援してくださる地域の方々とお話しする機会を得ます。
どなたも口々に「あなたって、とってもがんばってるよね」と言ってくれます。同時に「やはりもっと障害者同士仲よくしなさいよ」「協調性は大事よ、みんなと合わせないとうまくいかないし、○○ちゃん自身つらくなるのよ」「障害者にとって一番大事なことは素直さよ」とも言われます…どちらの意見も「ごもっともだ」と頷きつつもそれらの言葉にものすごい違和感を覚えて苦しくなってしまう私がいます。
確かに重度の発達障害はじめ、様々な障害や生活上の困難を抱えていますが、それでも私はすでに五十歳です。五十歳であればむしろ、すべてにおいて自立し、責任ある仕事を持って納税をしている姿のほうが当然でしょう。当り前なことを当り前のこととして実行しているに過ぎないのに発達障害があるばかりに「すごいね」と特別なことのように言われることに違和感を感じます。
また、無用のトラブルについては、発達障害当事者の私もできる限り回避したいと思います。しかし、そのために過剰に他人の目を気にしてびくびく恐れたり、自分の意見も言えないまま「こんなことをやったら他の人から変な目で見られるだろうな」と、実行に移す前から心配したりして結局やりたいことも実現できないまま、無駄に時間を費やすのはもうイヤだなと思います。
ただ「自分の意見はきちんと意見として述べられるか」「自分の考えていることを素直に実行に移せるかどうか」だけだと思います。なのに、他人の反応を気にしすぎる余り、大切な自分を殺すのはもう本当にイヤです。
人は「違う」ことが当然であり、「皆同じ」ではない
一人ひとりそれぞれが違う人格である以上、物事に対する考え方も生きる上での価値観も自ずと異なるのが当然です。それぞれ「違う」ことをお互い認めあえる社会であれば、こんなに息苦しくないのにな、そう私はいつも感じています。
「障害」の有無についても、私はただの「他者との違い」だと今は受け止めています。子どもの時から私たちは「みんな同じ人間」だと、そう繰り返し教えられ、心に叩き込まれてきました。しかし、本当は「人はみんなそれぞれ違う」からこそ、その違いを認め合えるような価値観を培おう、というスローガンじゃなければおかしいと思います。
もしも人間は「みんな同じ」でなければならないのだとしたら生まれつき「同じ」能力を有していない私のような発達障害者はそれこそ「ダメな存在」だよね、社会には不要な役立たずだよねと、社会から抹消され、ヘイトの対象に組み込まれていく恐れもあるかも知れません。
だから他人とは違うことよりも、むしろ「みんな同じ」でないといけないという発想のほうが、本当は怖いのではないかと私は考えています。
同調圧力や馴れ合いが私たちを苦しめる
「みんなと同じでなければならない」という同調圧力は、そのじつ社会のどこに行っても逃れられない「規範」です。「みんな同じでないといけない」という考えは、コミュニティ内の不言律であり、かつ守らねばならない最重要のルールとして存在し、私たち一人ひとりをひたすら息苦しくさせているような気がします。
同調圧力は健常者の組織からだけではありません。自分と同じ立ち位置の障害者からも「障害を持つ仲間」であることを言質に、「つるまなければならない」という押しつけみたいな圧力があります。この堪らない同調圧力に私は苦しくて心が押しつぶされそうな気分です。
群れるという言葉の派生語が「ムラ」だという話を聞いた記憶があります。「みんな同じ」と、群れて過ごせば、自分にトラブルが降ってくる恐れもないのだと、平成も終わりそうな現在でも実しやかに信じている私たちです。
しかし、群れていれば必然的に馴れ合いも起こります。馴れ合っていれば例え「悪いこと」を行っている実感こそあっても、自分だけ群れから抜けることができません。「のけ者」にされれば、次のターゲットは自分かも知れない不安から、悪いと気づいても離れられないのが私たち人間です。
「悪いこと」の際たる一例がイジメです。学校でも職場でもママ友の間でも障害者の集まりでも…目立つ奴は排除されるのがイジメの本質でしょう。目立つ奴=違うことをする人間。そのように捉える考え方に、他者の違いを認める文化は根付きもしません。そこにあるのは群れの同調圧力と、本当の自分を殺す「馴れ合い」だけです。
馴れ合う文化、自分を殺すことをよしとする群れのなかでは、決して自身の成長も望めないと私は思います。例え他者とは違うことを理由に集中攻撃され、心が折れてしまう出来事に遭遇したとしても、群れることを時にはNOといえる私であり続けたいです。
ゼロが幾ら群れてもゼロでしかない、勇気を以て1であれ
今回、同じ障害当事者から自分が着ている服への批判を受けて、私は本当に心が折れまくりました。そんなダメな状況からどうにか脱出するために、私はいろんなことを考えて過ごしていました。
第三者からの無責任な批判の言葉から心が折れて、衝動的にゴミに出そうとクローゼットから引っ張り出した服の山に埋もれ、つらくて夜も眠れなくなっていた間、泣き続けていた私が心の拠り処にしていたひとつの言葉があります。
それは以下の言葉です。
0が何万集まっても0に過ぎず、1の方が強いと言っている。(『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』より)
パリで学びを続けていた画家・藤田嗣治が日本に帰国後、彼の実力と功績をやっかんだ同業者から、ひどいイジメに遭わされていた時に書いたエッセイ「腕一本・巴里の横顔」の一節です。
藤田は画家仲間からのイジメのために創作活動もままならなくなり、その後結局フランスに帰化してしまうのですが、藤田は
「群れる日本人はいうなれば『ゼロ人称』に過ぎず(藤田自身は)“私”という一人称なのだ。『ゼロ人称』は何万人群れても単に『ゼロ』のままだが、そのなかにあって(藤田は)幾ら非難されても批判されても『一人称』である私自身のほうが強いのだ」
と、語っているのです。
馴れ合いが平気になって、疑問すら抱かなくなってしまえば、私たち人間は自分とは異質なものを当然のように(無意識のうちに)イジメてしまう性質を持っています。例えおかしいと気づいても、群れから疎外され、自分がターゲットにシフトすることが怖いので「おかしい」と声を上げる勇気はなかなか出せません。だからこそ群れて馴れ合う奴らは『ゼロ人称』なのです。
しかし幾らゼロが群れても、ゼロの群れから派生した事実無根の中傷が「一人の口から漏れて何千の人の耳に伝わってそれが広まっても」、そんなものはいつまで経っても意味を持たない「弱っちいゼロ」だと私も思います。
障害の有無に関係なく、弱いゼロの群れに紛れて自分を殺し、同調することで居場所を求めていくよりもむしろ、限られた人生を“私”という「1」の力で貫く勇気を持って、その上で自身が本当にやりたいと思うことを、自己の責任のもときちんと実行できるような強い自分に私はなりたいです。
発達障害者として立ち直りを目指している私が今考えること
落ち込んでいた私は少しずつ気分が回復し、夜も眠れるようになりました。食欲も多少は湧いてきましたがそれでも私は未だに他人の目が怖くて、外出する際は躊躇してしまいます。
立ち直るべく意図的に「自分が本当に着たい服」をタンスから取り出してみても、かつて受けた批判の言葉が脳裏に甦っては、不安になってついつい黒っぽい目立たない服を無難に選ぶ私が鏡の中に映っています。
しかしこのように他人の目を過剰に恐れてやりたいこともできず、言いたい言葉も飲みこんでしまうような自分からはきちんと卒業したいと願っています。
重度の発達障害だと診断されている私は、きっといろんな意味で「他人とは違う」のでしょう。それはそれで、他人とは異なる「違い」を自ら蔑んでしまうことなく「ただ違うだけなのだ」と正しく捉えられる私に成長したいと願っています。
他人とは違う私自身を大切にし、自分とは違う他人をきちんと尊重できる真の大人に、私が一日も早くなれますように。
[参考記事]
「発達障害の私が首つり自殺を決行するまでの経緯」
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