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発達障害の二次障害により幻覚や幻聴、ギラン・バレー症候群に

 

 この記事は20代の女性に書いていただきました。発達障害の二次障害により、幻覚や幻聴、そしてギラン・バレー症候群、自殺未遂と色々と経験をされています。

……………………

 私は中学生の時自分が発達障害であると告げられました。診断される前も、診断された今も二次障害で苦しんでいます。今回は、どのような二次障害で苦しんでいるか、また、周りがどのようにサポートしてくれたかを書きたいと思います。

発達障害を放置し、本人に無理を強いる生活が続くと、かなりの高い確率で新たな障害を引き起こしてしまいます。これを二次障害と言います。

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二次障害の発症 

 母親や祖母が完璧主義だったこともあり、幼い頃から常に「優等生」を演じていました。「そうしないと嫌われる。いい子でいなければ私の存在価値はないんだ」と幼心に考えていましたが、言われたことができず、怒られることもしばしばありました。それでもやはり、「これ以上嫌われたくない」その一心で優等生を演じました。その無理が今後、自分の人生を大きく狂わせることなど知らずに…。

 10歳の時に、突然幻覚が見え始めました。人の目から小人が出てきて私を攻撃してくる、というものでした。私は、幻覚という概念を知らず、とても怖く感じたのを覚えています。しかし周りの人からは、学校などを休むための言い訳としか受け取ってもらえませんでした。その頃から、しばしば発熱などで学校を休むようになりました。当時の私は学校に行かないことは悪いことだと考えていました。自分の思う「優等生」ではなくなってしまった…そう思った私は「死にたい」と思うようになりました。

 12歳の時、突然首から下が麻痺して入院することになりました。ギラン・バレー症候群という診断名でしたが、今思うと「優等生」を演じ続けたストレスによる二次障害だったのでしょう。その日を境に私の生活は一変しました。もともと障害特性で人より無かった体力はさらに減り、精神的や身体的に負荷がかかりすぎると足が麻痺するというオプションまでついてしまいました。その入院の際、発達障害の検査を受けましたが、検査結果について私自身には告知されませんでした。

※ギラン・バレー症候群はウイルスなどの感染で起こされるので、二次障害とは直接関係ないでしょうが、過大なストレスにより免疫が落ちていたことがこの病気を引き起こしたと私は考えています。

 ギラン・バレー症候群は、急性・多発性の根神経炎の一つで、主に筋肉を動かす運動神経が障害され、四肢に力が入らなくなる病気である。重症の場合、中枢神経障害性[要出典]の呼吸不全を来し、この場合には一時的に気管切開や人工呼吸器を要するが、予後はそれほど悪くない。

 日本では厚生労働省の治療研究(難治性疾患克服研究事業)の対象となっているが、医療給付(難病医療費助成制度)の対象ではない。

ウイキペディアより引用

発達障害を告知される

 中学に入ってすぐいじめに遭い、不登校になりました。人間が怖くなり、相談室にも行かず、外に出るときはヘッドホンを着け、マスクをし、帽子を目深にかぶっていました。その頃から幻聴も聞こえ始め、常に「お前はダメ人間だ」「生きている価値もない」「死んでしまえ」などと得体の知れない声に罵られ続け、精神状態は最悪でした。小学校の頃から自傷行為はしていましたが、中学に入ると、よりそれは酷くなっていきました。

 学校に行かないことで自尊心も下がり、母親との関係も悪くなっていきました。何度も自殺未遂を繰り返し、家出をしようとしては止められ…そんなことを繰り返し、私も母親も疲れきっていました。

 そんな時、受診していた精神科から、小児精神科に行くように勧められました。私は「自分は病気ではない。絶対に行かない」と言い張りましたが、抵抗むなしく通うことになりました。今となっては引きずってでも連れて行ってくれた母親、勧めてくれた精神科の方々に感謝しています。

 小児精神科にかかってすぐ、閉鎖病棟に入院することになりました。そこで初めて、私は自分が発達障害を持っていることを知ったのです。

だんだん変わってゆく発達障害への見方

 発達障害と診断されて数年後。やっと自分の病気を受け入れ、少し症状が落ち着いた私は、定時制の高校に入学しました。しかし、周りとの人間関係でストレスが多く、うっかりミスや忘れ物などで先生に怒られることもしばしば。精神面のストレスにより足が麻痺し、車椅子になることも多い中で通学していました。

 「これは病気のせいだからしょうがないんだ」と自分に言い聞かせても自尊心は下がって行く一方。やがて、一年経つと学校を辞める選択肢を選ぶようになってしまったのです。

 学校をやめて一年が経過し、私は働かず、学校にも行かず生活していました。おそらく発達障害を持っていた母方の叔父が、私が高校を辞める直前に自殺したこともあり、周りの私への接し方はとても優しいものになっていましたが、私の完璧主義は治りませんでした。

「こんな役立たずの穀潰しが生きてる価値なんてあるんだろうか」そんな思いに常に悩まされていました。

 状況が変わらないまま、私は21歳になりました。そして、21歳になった今でも、その思いは常に消えません。しかし、親が自分の見方を修正し、「今できていることを喜ぶ」ことを実践してくれるようになったことと、周りのポジティブな友人が私の辛い気持ちをプラスの方向へ引っ張ってくれることで、なんとか今まで生きていることができました。現在私も「できることからコツコツと」「1日1回自分を褒める」をモットーに毎日の生活を送っています。

現在の生活とこれからの目標

 21歳になった現在、だいぶ、うつ症状が落ち着き、通信制の高校に入り直すことができました。通信制なので、人間関係に悩むこともなく、楽しくプログラミングを勉強しています。また在宅ワークの紹介サイトに登録し、少しづつお仕事をお引き受けしています。

 二次障害ゆえに、体が思うように動かなかったり、生きてるのが嫌になったりすることがあるのはこれからも変わりません。ですが、上手に付き合って行くことは可能です。ですから私は、障害と上手に付き合い、将来的に就労できたらと思っています。二次障害で苦しんだのではなく、二次障害によって人の痛みが分かる人に成長できた。そんな風に思える日が来るのもそう遠くはないんじゃないかと思っています。

[参考記事]
「発達障害による二次障害でパニック障害に」

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